2014年1月28日火曜日

14 <第2章 遠回りのはじまり> 不登校というサイン

高野山の春は平地に比べると遅い。四月初旬は、桜のつぼみもようやくほころびかける頃だ。
入学式の日は、雪になった。

当時の高野山高校は、「普通科」「宗教科」「商業科」の3つに分かれていた。私はもちろん「宗教科」だ。高野山で生まれ育った人はもちろん、全国から集まってきた高野山真言宗の寺の息子たちなど、様々な境遇の生徒たちが親元を離れて集まっていた。
剣道部もあり、入部してすぐにレギュラーになり県大会に出場したが、中学生と高校生の体格の違いに圧倒された。
音楽のA先生に言われて、「聖歌隊」にも関わっていた。仏教聖歌を歌う合唱部のようなクラブだ。仲間たちと入部早々、倉敷市民会館のこけら落としにも出演した。

 仲の良い友だちも何人か出来た。その友だちの中にベーシストになったバカボン鈴木がいる。彼は寺の息子ではなかったが、得度して恵光院(えこういん)という寺に入り、寺の仕事をしながら高校に通っていた。私が住む成福院と近かったこともあり、よく学校の行き帰りを共にした。
 でもその鈴木くんが音楽の道に進み、名前はよく知っていた“バカボン鈴木”になっていることは、10年ほど前まで知らなかった。
 そのことを教えてくれたのは、後藤太栄(ごとう・たいえい)くんだった。彼は西禅院(さいぜんいん)という寺の息子で、とても仲が良かった。
彼は昔からとても才能豊かな人物だった。アマチュア無線や天体観測の趣味があり、行動はいつも積極的。
 そんな友人たちに囲まれ、大人から見れば何の問題も無いように思ったことだろう。

 一日の生活はというと、朝の勤行をして朝食を済ませ、学校へ行く。昼休みは、寺に帰ることが出来たので、昼食に戻ることも多かった。クラブがある日は活動を終えてから寺に帰る。
高野山の寺の殆どは宿坊といって、参拝の方たちが宿泊できるようになっている。成福院も宿坊であり、宿泊のお客さんが多い日はお膳を出したり、布団を敷いたりするお世話を手伝う。夕食を食べ、宿題を片付けて風呂に入り、就寝。その繰り返しが日常だ。食事は私の希望で、寺で働く人たちと同じテーブルで、同じ食事を摂った。後継ぎということで、特別な扱いをされたくなかった。
連休や夏休みは、忙しいけれど充実した時間だ。宿泊するたくさんの参拝客のお膳を手分けして運び、布団を敷く。そのほか、各部屋を回り、翌朝勤行時の供養に関する説明をし、申込みを受付けていく。
これは言ってみればお金を戴く営業的なお仕事でもある。高校生の私に出来るかどうか不安だったが、意外にお客さんの反応は良く、やり甲斐もあった。

学校と寺だけが生活環境だった。
友だちたちも寺の仕事があるから、何かを一緒にして遊ぶという時間もない。ましてや山の上の小さな町だ。高校生が楽しめるような娯楽など、当時は無い。
楽しみは、月に1回ほど休みの日に1人で大阪まで出かけることだった。出かける度に、たくさん映画を見た。その頃はハリウッド映画よりもヨーロッパの映画が全盛時代。イタリアやフランスの映画を主に見ていた。必ず最低でも二本は見る。
映画を見た後は書店やレコード店に立ち寄り、興味を惹かれるレコードや楽譜などがあれば小遣いの許す範囲で買い、また高野山に戻るのだ。

 寺での生活や仕事は好きだった。寺を将来継ぐということも、納得していたはずだったが、自分の中で「何かが違う」と感じ始めていた。
「本当にこれでいいのか?」
そんな心の声が聞こえ、葛藤していた。
一人っ子ゆえ、人一倍独立心の強かった私の心の中に、自分でゼロから人生を切り開く事を断念せざるを得なかった虚しさが、日々蓄積されていたのかもしれない。

もうひとつ私を悩ませていたのは、母が苦労している姿だった。
お客さんや寺で働く人たちの食事の準備や洗濯、各部屋の掃除、宿泊客の食事の用意に忙殺されていた。
その一方で、父と同じように激しい気性の祖母との関係も複雑だった。父は祖母とも親子げんかをし、母とはいつものように夫婦げんかをしていた。
高野山に家族で移り住む前でも同じ状況はあったが、その時よりも深刻な状態のような気がしてならなかった。
このままでは家族がバラバラになっていく。切実にそう感じていた。

一番多感な時期だ。
どうして父が寺を継ぐ決意をする必要があったのか?
父もまた葛藤しているように思えてならなかった。
私は、尊敬していた祖父の思いを継いでいきたいと思う反面、寺にいることで家族が崩壊するくらいなら、元の生活の方がまだ良いのではないか?と思っていた。

忙しい夏休みが終わり、2学期が始まると、急速に学校やクラブにも興味が無くなっていった。昼休みに寺へ戻ったきり、学校へ行かない日が少しずつ増えていき。次第に休みがちになっていく。
今で言う「不登校」の状態に近かった。

それは学校への不満ではなく、高校1年の私が両親や祖父母に送ったサインだったように思う。
「自分がやりたい仕事を見つける道を歩みたい」
日増しにその気持ちがどんどん強くなっていく。
その気持ちを実現するためには、レールを外れるしか方法が無いことは明らかだった。でもそれは大人たちにとっては「わがまま」なことであり、子供の「たわごと」としか受取られないこともわかっていた。
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 話は変わるが、高野山高校時代の仲間数名と、つい先日会う機会を得た。当然のことだが、みんな各地で立派な住職や社会人になっている。とても楽しく、不思議な時間でもあった。なぜなら私にとっては、あの高校1年生から実に41年ぶりの再会だったから。
 私が東京に仕事場を移してからも親しくしていた後藤太栄くんは、大学卒業後は高野町町会議員となり、寺を継ぎ、高野山の世界遺産登録にも尽力し、高野町長もしていた。
 拙作のレクイエムを神戸で初演した2010117日には、わざわざ家族を連れて聴きに来てくれた。その年、高野町長の2期目の任期半ばでALSという難病を発症し、10月に53歳の若さで早逝してしまった。
病と闘う間、彼から時折届くメール。人生を、そして仕事を全うできない事への無念さが、言葉の端々に感じられ、私もまた辛かった。

彼の希望で、彼が高野町長時代に「時音(ときね)」という町内全域に時を告げる音楽を作った。それは朝8時、正午、夕方5時に流れる音楽で、町内の人にも、観光で訪れる人にも概ね好評だっとようだが、彼の死後、町長が変わり、現在は聴くことが出来ない。

その音楽を、いずれYouTubeにアップしようと思っている。

2014年1月24日金曜日

13 <第1章 「記憶」のなかの原石> 雪の日のスカボロー・フェア


ブログと連動した未発表の編曲作品「スカボロー・フェア」を下記にアップしています。
http://youtu.be/_eCLIMxCVuI
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中学になるまで、我が家にはレコードというものが無かった。
 両親ともレコードを聴くほどの音楽愛好家でもなかったし、贅沢なものだったと思う。

中学の入学祝いに、ようやく安価なレコード・プレーヤーを買ってもらうことになる。
初めて自分の小遣いで買ったレコードは、ヴァン・クライバーンが演奏するショパンの「別れの曲」が入ったシングル盤だった。
ピアノを習っていたからということもある。もうひとつは「ピアノで練習する曲を聴いて勉強するために、お祝いはレコード・プレーヤーにして欲しい」と親に言った手前、やはり最初はピアノの曲が入ったレコードが必須だったからだ。

でも本当の目的は別のところにあった。
小学校6年頃からお古のポケット・ラジオで深夜放送を聴き始めていて、その影響もあって洋楽のポップスや映画音楽に興味が湧いていた。
「中学に入ったら深夜放送で気に入った曲のレコードを買って聴きたい」というのが最大の理由だ。

ゼーガーとエバンスの「西暦2525年」というシングル・レコードが最初に買ったお気に入りの洋楽ポップス。
その後中学時代はクリフ・リチャードの「しあわせの朝」、カプリコーンの「ハローリバプール」、ハミルトン,ジョー・フランク・アンド・レイノルズの「恋のかけひき」、ポップ・トップスの「マミー・ブルー」、カスケーズの「悲しき雨音」、ドーンの「ノックは3回」や「幸せの黄色いリボン」、ショッキング・ブルーの「悲しき鉄道員」、ポール・マッカートニーの「アナザ・デイ」などを買っていたが、お気に入りが全て買えたわけではない。
そんなレコードの中で一番大切にしていたものが、サイモン&ガーファンクルの2枚組LPだ。当時のCBSソニーが出していた「赤箱」シリーズのひとつで、ベスト盤ともいえる。私たちの世代は、ビートルズも聴いたが、いわゆるビートルズ世代とは違う。どちらかといえば、サイモン&ガーファンクル世代なのだ。

私のもうひとつの楽しみは、深夜放送を聞きながらヒット曲を予想することだった。上位に上がる前に「この曲はヒットしそう」などと予想して楽しんでいた。けっこう当たる確率が高かったので、嬉しかった。
それにしても、中学生の頃に聞いていたラジオ番組は面白い。一つの番組の中で歌謡曲、洋楽、演歌、映画音楽などのインスト曲が混在して流れていた。好き嫌いは別にして、いろんなジャンルの音楽を聞くことができたことは、意外にいまの仕事に役立っているかもしれない。

高野山にはレコード・プレーヤーが無かったので、中学三年の時にスピーカと一体となった小さなものを高野山で買い、行くたびにレコードをもって出かけた。
高野山高校に進学することが決まっていた冬休みは、気持ちも違っていた。
その年の冬は、いつもに増して寒く、毎日のように雪がしんしんと降った。昼間でも町の中は静まりかえっている。
耳を澄ませると、サワサワという雪が積もる音が聞こえてくる。
その音を聞きながら、中学3年生の初めに転校していった親友のNくんに手紙を書いた。

予想もしていなかった進路になったこと。自分で納得をしたはずなのに、これからどうなっていくのか、とても不安なことなどを、書き綴った。

手紙を書き終え、レコードに針を落すとサイモン&ガーファンクルの「スカボロー・フェア」が静かに流れてきた。
降り続く雪を見ながら、悲しくなった。
 

2014年1月20日月曜日

12 <第1章 「記憶」のなかの原石> 晴天のヘキレキ

中学一年が終わった後の春休みに、私は得度をした。得度は仏門に入る、僧侶になるための最初の儀式だ。
頭を丸め、祖父が住職をしていた寺で得度式を行った。僧侶では祖父が師匠ということになる。法名(僧名)は「瑞光(ずいこう)」。
 私の通っていた中学では「男子は丸坊主」という校則が無かったので、学校ではけっこう恥ずかしかったが、ピアノを人前で弾くほどのことではなかった。

 なぜ得度をすることになったのか、理由は今もよくわからない。でも私にとっては、さほど不思議なことでもなかったし、得度をすること=寺の跡継ぎという話でもなかったから、寺の孫として生まれたからには当然のことのように思っていた。
 祖父母や両親がどう考えていたかは定かでないが、この得度をきっかけにして、大人たちは跡継ぎをどうするかという話をしたのではないかと考えている。

 石堂丸(いしどうまる)のお話をご存知の方はおわかりだと思うが、もともと高野山というところは、明治時代になるまでは“女人禁制”で、女性は入山を許可されていなかった。もちろん僧侶は妻帯できない。したがって寺は、親から子へという血縁で継がれることが無かったのだ。明治になってからは、次第に血縁で継ぐ寺も増えていったようだが、祖父が住職をしていた成福院はずっと血縁関係ではない僧侶が跡継ぎとなっていた。

 そんなこともあって、寺に慣れ親しんでいたとはいえ、私は跡継ぎになることを具体的に考えたこともなかった。祖父の後はどうなるのだろうと考えたことはあっても、身内で継ぐ準備を誰もしていなかったので、これまでどおり血縁ではない人が継いでいくのだろうと思っていた。
 
 中学三年の夏休みも普段と変わらずに高野山で過ごしていた。夏休みの間に行われた剣道の中学校大阪府大会では、ベスト4に残ることができて、嬉しい夏休みでもあった。
 状況が一変したのは、二学期が始まり十月になった頃だろうか。
 父が突然、「寺を継ぐことにしたからな。だからその後はお前だから、高校は高野山高校に行け」と言ったのだ。私に選択の余地は無かった。

 将来どんな職業に就くかは別としても、可能性が広がる高校に進学しようと勉強をしていた。その必要が無くなるというわけだ。一本のレールが一日にして引かれてしまった。
 自分の気持ちをどう整理すればよいかわからなかった。

いったい何があったのだろう?
父は、四人兄弟の三男だった。一般的には長男が継ぐのが自然だが、当時長男は京都大学の教授をしていたし子供もいなかった。次男は徳島の寺に婿養子として入っていた。歳の離れた末っ子はアメリカ留学から帰国し、エリート社員として社会人のスタートを切った頃だった。

その時、父は42歳。男の大厄の後厄の年齢だ。今の私よりもひとまわり以上若い。
祖父から、どうしても継いでくれと頼まれたのだろうか?その頃は高校の教師をしていたので、他の兄弟よりは継ぎやすい状況の自分が跡継ぎになり、親を安心させたかったのだろうか?
それとも寺を継ぐことに何か希望を見いだそうとしたのだろうか?
あるいは戦争があと少し長く続いていれば、きっと死んでいたはずの自分の人生を、僧侶になり寺を継ぐことでリセットしてみようと考えたのだろうか?
そして自分の後を息子に託すことが、幸せなことだと思ったのだろうか?

釈然としない気持ちもあったが、嫌ではなかった。
「原爆の図」を小学生の頃から見ていた。
毎日休むことなく慰霊と供養の祈りを捧げる、祖父の姿も見ていた。
尊敬していた祖父の思いを継いでいけたら、それはそれで意味があると考え、自分を納得させたのだ。

そして親の言うとおり高野山高校へ進学することになり、将来は寺を継ぐことが私に課せられた役目となった。
寺が家業という意識が無かったから、それまでは自分の歩む道は自分で切り拓くものだと思っていた。あまりに急な展開は、まさに青天のヘキレキだった。


ちなみに僧名の「瑞光」は、目出度い光、吉兆な光という意味があるらしい。余談だが、同じ名前の泡盛もある。

2014年1月14日火曜日

11 <第1章 「記憶」のなかの原石> 原爆の図


画家、丸木位里・丸木俊ご夫妻の共同制作として著名な作品「原爆の図」。
一九五〇年の作品である「幽霊」「火」「水」から一九八二年の「長崎」に至るまで、全15部から成る大作だ。「水俣の図」「沖縄戦の図」でも広く知られている。
広島は夫である位里さんの郷里。当時東京に住んでおられた位里さんは、原爆投下の三日後に広島に入り、地獄と化した惨状を目の当たりにされたという。妻の俊さんも一週間後には広島に。そして五年後、水墨画家の位里さん、油彩画家の俊さんの共作による「原爆の図」が発表される。

1年の3分の1を過ごしていた高野山での記憶のなかで、小学生の頃から私の脳裏に焼き付いているもののひとつが「原爆の図」だ。

祖父が住職をしていた成福院の敷地に、摩尼宝塔(まにほうとう)という名前の塔が建っている。太平洋戦争の戦没者や犠牲者の慰霊ならびに供養と、平和を願う気持ちから祖父が昭和40年に建立した。

実はこの塔の中に、丸木美術館の公式ホームページにも記録として掲載されていない「原爆の図」がある。それは「火」と「水」と題された二つの作品だが、丸木美術館に収蔵されている同名の作品とは、構図も違うまったく別の作品なのだ。
数年前まで塔内で展示されていたが、照明などによる痛みが目立ち始め、現在は写真家・長坂嘉光氏により撮影され、500年~1000年は変化しないといわれている写真プリント技法(プラチナプリント)を用いて保存。実物はあまり光が直接当たらない場所に現在は移動されれている。

 生前の祖母の話によれば、祖父が摩尼宝塔の建立にあたって丸木ご夫妻に作品の依頼をしたという。お二人は成福院に泊まり込み、三ヶ月かけてその二つの作品を完成させ、奉納寄贈されたというのが経緯だ。
 小学校3年生、9歳からずっと、私は高野山にある2つの「原爆の図」を見続けてきたことになる。

 「火」は炎に包まれる母親であろう女性のそばに、正面を向いてすわる女の赤ん坊。周りには少女などが描かれている。炎に焼かれて皆全裸だ。
墨で描かれた人物と、朱で表された炎が強烈なコントラストで、悲しみと怒りが満ちあふれた作品だ。子供の目から見ても、そのメッセージはとても強かった。
子どもを炎から守ろうとするかのような女性は、ふくよかな身体で、そのふくよかさが悲しみと無念さをいっそう際だたせる。

「水」は対照的に、静けさの中からメッセージが伝わってくる。
黒く焼けて折り重なるように倒れている人々。その傍らに、片方の手で幼い妹とおぼしき幼児の手を握り、もう片方の手で水の入ったバケツを持って立ちつくす少女が印象的に描かれている。むろん着衣は無い。
水を求めていのち尽きた人々のそばで、まだ息のある人たちに少しでも水を分け与えようとしていたのだろうか。

 この2つの作品は、戦争の恐ろしさ、愚かさ、平和の尊さを私に無言で語り続けてきた。この「原爆の図」以外にも、戦地で倒れた人たちの遺品や、銃弾が貫通した跡の残る朽ちた鉄兜なども摩尼宝塔には展示されていて、人類が同じ過ちを繰り返さないようにという祖父の思いと願いが込められた空間だった。
 
 祖父は上田天瑞(てんずい)という。
 昭和16年に、南方仏教の研究と修行のために、タイの寺院に入った。戦争の勃発により日本軍がタイに進駐し、陸軍の命令でビルマ(現在のミャンマー)に行き、日本語学校の校長をしていた。
ビルマ戦線は激戦の地でもあり、祖父は悲惨な状況のまっただ中にいた。その後ビルマ僧としても修行し、ビルマ仏教会から贈られた仏像と経典を携え、昭和19年に奇跡的に生還する。
 すでに制海権も握られていたので、日本に向かう船団はことごとく潜水艦により撃沈されたが、祖父が乗っていた船だけ無事に日本に辿り着けたらしい。

終戦後、高野山大学の教授となり学長をしていた時期もあるが、私が生まれた昭和31年に政府派遣の遺骨収集団に宗教者代表として参加。再びビルマの地を訪れる。そしていくつもの戦跡で遺骨収集と巡礼供養を行い帰国。
当時の厚生省から遺品の一部と共に遺骨の分骨を受け、それらは後に摩尼宝塔に収められることとなる。

祖父が見たはずの凄惨な戦場。
そこで亡くなっていった各国の人たちへの苦渋の思い。
宗教者としてのあるべき姿を、祖父なりに実践していたのだと思う。

祖父自身が書き残した文章の中に
「偽りの多い世の中だが、宗教者として日々供養を行うことは、真実でありたい」とある。
その言葉通り、死の床に伏せるまで、頑ななまでに毎日欠かさず供養の経をあげていた。そんな祖父を、私は子供の頃から尊敬していた。
ただなぜかプロレスと肉の脂身が大好きだった。
痩せていたし、脂ぎった人でもなかったのに、そのギャップは何だったのだろうと、今でも不思議に思うことがある。

祖父が丸木夫妻に依頼した「原爆の図」。
そして毎日休むことなく、慰霊と供養の祈りを捧げていた祖父の姿。
それは作曲家となった私にとって、大切な何かをいつも心に送り続けている。

私がレクイエム・プロジェクトを沖縄・長崎・広島でも行っていることの必然性が、そこにある。

10 <第1章 「記憶」のなかの原石> 頭から音譜が消えた日


中学校に入ると、一段と剣道に熱が入るようになる。クラブ活動は、もちろん剣道部だ。
女の子から憧れの視線を浴びるような花形クラブに、興味がなかったといえば嘘になるが、大人ぶって硬派を自認していた。
毎日クラブ活動に汗を流し、週三回は道場に通う。剣道三昧ともいえる生活だが、ピアノの練習も忘れてはいなかった。もちろん新しい友だちにはピアノのことは絶対内緒だ。勉強も頑張っていたが、それは成績が悪いと父の鉄拳が飛ぶからでもあった。

剣道は練習の甲斐あって、中学1年の時には初段を取得する。15歳から初段は受験可能だったので、最年少で取得だった。段位は日本剣道連盟の正式なもので、中体連(中学体育連盟)が認定するものとは違い、大人たちに混じって昇段試験を受けた。実技だけではなく、木刀を使った「形(かた)」や筆記試験まである。
筆記試験は剣道の心得に関する問題などが出題されるが、なかでも「気剣体の一致」という心得があり、その汎用性はとても興味深い。

「気」=心や意志の作用。
「剣」=竹刀の作用。つまり技術的な要素。
「体」=体勢。身体の動き。
その3つが揃わなければ、有効な一打にならないという意味なのだ。
スポーツ全般にも当てはまるだろうし、いろんなジャンルで使えそうな心得と言える。

音楽にも、そのまま当てはまる。多少言い方を変えれば、「気」は同じく心や思いであり意志でもあるが、感性もここに入るだろう。「剣」はやはり音楽面での技術。「体」は作品として構成し、完成させる演奏能力あるいは作曲能力だろうか。
ビジネスマンだったら「気」には企業理念なども入りそうだ。「剣」は個人のスキルだし、商品と考えることもできる。「体」は行動力、営業力と考えれば納得がいく。

話が逸れたが、剣道では自信を持つことが出来た。中学2年の2学期には剣道部のキャプテンになり、クラブを統率していた。ところが、ピアノに関しては恥ずかしさや人前で弾くときの緊張がピークを迎えていたのだ。
毎年1度、必ずピアノの発表会がある。思春期ということもあり、年々人前で弾く時の緊張度は増していったが、中学2年生の時の発表会は忘れられない。

弾いた曲はJ・S・バッハのイタリア協奏曲第1楽章。
同じような音の動きが形を変えながら何度も出てくる。出番が近づくにつれ、極度の緊張状態になっていく。いよいよ自分の出番が来た時には、すでに心の中は不安で一杯だった。

発表会では楽譜を覚えて弾く。
「間違えるんじゃないだろうか」「忘れるかもしれない」「そうなったら恥ずかしい」などと思いながら弾くのだから、その時点で精神的に駄目になっている。
追い打ちをかけるように、さらに足までガクガクしてきたのだ。
響きを豊かにしたり、音を繋ぐ目的でペダルを踏む足が、上下に激しく震えていた。指の動きもだんだん怪しくなる。まさに制御不能の状態で、演奏をしていた。そして案の定、はっと思った瞬間に次に弾くべき音がわからなくなった。

 こうなると状況はさらに悪い方向へと進む。頭の中が真っ白になり、音符はすべて頭の中から消えていた。「こうかな」と思って弾く音がすべて違う。
 虚しい修正作業も効果は無く、何とか最後のフレーズだけ思いだし、それで終わってしまった。途中の数10小節は、結局思い出せず、弾けずじまいに終わったのだ。

 恥ずかしさと悔しさで、すぐにでも会場を後にしたい気持ちだった。
 トラウマにも似た状態になり、必要以上の緊張感から解き放たれたて、ピアノを人前で弾けるようになるまで、それから10年ほどかかることになる。

 

2014年1月10日金曜日

09 <第1章 「記憶」のなかの原石> 剣道少年の誕生


「男らしい何か」をやりたい。そう思った私は、珍しく父に相談した。
 父も昔、柔道やサッカーをやっていたので、スポーツを習うことに関して、頭ごなしにノーとは言わないような気がしたからだ。
 
 父も男親として相談されることが嬉しかったのだろう。さっそく一緒に見学に行くことになった。剣道というものを初めて見た。指導者の人たちの凛々しい姿は、子供のチャンバラごっことは雲泥の差だ。間合いを取りながら、けっして無駄な動きは無い。その緊張感がたまらなく“おとな”だった。
 「これだ!」と思ったのは、言うまでもない。すぐに入会の手続きを父がしてくれたが、約束がひとつだけあった。それは、ピアノをやめてはいけないということだった。
 「続けられないくらいなら、やるな。中途半端は許さない」というのが父の考えだった。

 父との約束を守りながら、どんどん剣道に夢中になった。
 私の身体に合っていたのかもしれない。剣道を始めてからは、自分でもわかるほど運動神経が急速に発達した。そうなると上達するスピードも速くなる。
 メキメキ腕を上げた私は、小学校5年生になる頃には、枚方市内はもちろん、北河内という近隣の6つの市を含むエリアで一目置かれる剣道少年になっていた。大会では、何度も優勝した。

 もう病みつきだ。面白くて仕方がない。
 剣道の面白さのひとつは、瞬発力や相手の動き全体を見る力、直感的、瞬間的な判断が勝負に影響することだ。その感覚を養うためには、日頃の練習がやはりものを言う。
剣道の道場に行かない日でも「勝つため」「上達するため」に素振りなどの練習を怠らなかった。
 競争意識、勝つという意識が芽生え、かけっこで5人中5番と言って喜んでいた頃のような“おとぼけ君”とは様子が違っていた。

剣道に熱を上げていた頃、W先生の転居を機に、ピアノの先生が代わることになる。歌のレッスンも自然消滅になった。
新しいピアノの先生は上野の音楽学校(今の東京藝大)のピアノ科出身の先生で、A先生。厳格な先生で、手の形などもずいぶん直されたが、W先生とは違った意味で素晴らしい方だった。

きちんと続けていると、ピアノもそれなりに上達するものだ。でも成長と共に恥ずかしい気持ちはどんどん膨らんでいた。小学校の高学年では、ピアノを習っていることを友だちにはひたすら隠すようになる。
小学校6年生の時は、その恥ずかしさがピークを迎え始めていた。

そんなある日、私がピアノを習っていることがクラス全員に白日の下にさらされる出来事が起こる。開成小学校では、音楽と美術は専門の先生がいたのだが、音楽の授業の時に歌の伴奏する役を、こともあろうに音楽の先生が私に押しつけたのだった。

事前に何の相談もしてくれず、いきなりみんなの前で
「上田くんはピアノが弾けるから、しばらく歌の伴奏をしてもらいます」と告げたのだ。校内の音楽会のためだったのかもしれないが、あまりに突然のことで呆然となった。

ピアノが弾ける女の子はクラスの中に何人もいるのに、なんで僕なの?という気持ちと、せっかく隠していることを何の断わりも無しにクラス全員の前で公言した先生が、子供心に許せなかった。
ある程度ピアノが上達していた私の耳からすると、たしかにその先生はピアノがお世辞にも上手とは言えなかった。それにしてもひどいやり方だと思った。いきなり土足で僕の心の中に入ってきたように感じたのだ。

しぶしぶ伴奏はしたが、音楽の授業はそれから大嫌いになった。
ピアノまで嫌いになったわけではなかったが、気持ちはどんどん剣道の方に向いていく。

ある時、ピアノのレッスンに行くと先生から
「専門的にピアノをやってみる?それなら別の先生を紹介しますよ」と言われたようだが、私にそのつもりはなく、両親も音楽を仕事にさせるつもりは毛頭なかった。
ピアノは引き続きA先生に教えていただきながら、気持ちは、ひたすら剣道に励む毎日を送っていくことになる。

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2014年1月9日木曜日

08 <第1章 「記憶」のなかの原石> 青きドナウ


私が通っていた小学校は、開成小学校という名前だ。
東大合格者数の多さで有名なあの開成中学・高校とは何の関係もない公立(大阪府枚方市立)の小学校だ。

ピアノのレッスンを受け始めたのが、その開成小学校2年生の春。
 ピアノはオルガンのように、絶えず足で空気を送る必要がない。さらに膝で音量をコントロールして強弱を付ける必要もない。とても快適だった。

 最初のピアノの先生は音大の声楽科を出て、子供たちにピアノや歌を教えていた女性のW先生だった。鍵盤を弾くときの姿勢、手首の位置や指の形など、オルガンでは気にしなかった注意が必要になり、余分な力を抜くことが最初の頃は難しかった。
でもとても優しかった先生のおかげで、順調にレッスンを続けていった。

日曜日だったのか夏休みだったのかは忘れてしまったが、ピアノを習い始めた年のある日、母と2人でウィーン少年合唱団の映画を見にいったことがある。おそらくW先生の薦めもあったのだろう。
その映画を見たことがきっかけで、私は歌も習いたいと言い出したようだ。好奇心が旺盛だったのか、自分が感じたことを素直に母に言っていたようだ。
そして、W先生にピアノと歌の両方を習うことになる。

映画の題名は「青きドナウ」。
ウォルト・ディズニーが製作したもので、調べてみると私が見た2年前に製作されていた。
大人になってから再びその映画をテレビで見る機会があった。
やはり少年たちの歌声が美しいことと、変声期を迎える少年を軸に展開される感動的なストーリーが心に残る作品だ。小学生の私が気に入ってしまった理由がよくわかった。

ピアノと歌を習い始めたものの、興味とは裏腹に恥ずかしさを少しずつ感じるようにもなっていた。ピアノを習っている男の子なんて、本当に少なかった時代だ。ピアノは女の子が習うもの、という感覚が大人にも子供にもあった。
「上田はピアノを習ってるんやで。女の子みたいやな」
などと、男の同級生たちにひやかされたりすると、恥ずかしくてたまらなくなった。毎日決まった時間をピアノの練習に充てていたが、外で友だちたちの声が聞こえると「ピアノを弾いていると、またひやかされるな」と考えたりする。

ピアノも歌も嫌いじゃない。でも、ひやかされるのは恥ずかしい。
たわいもないことだが、当時かなり恥ずかしがり屋だった私にとっては、それなり大問題だった。

放課後は昆虫採集や里山での遊びを謳歌し、夕方には家に戻ってピアノと歌の練習をする。練習しながら、密かに「男らしい何かをやりたい」と考えていた。
小学校三年になってすぐ、その「男らしい何か」が、身近な場所にあることを知る。

それは近所の中学校の体育館で週3回開かれていた剣道の道場だった。
「行きたい!これこそ僕が求めていた男らしいものだ!」と思った。
ひとつだけ心配があった。その頃の私は、まだ運動神経があまり発達していなかったようで、体育がそれほど得意ではなかったことだ。それこそ一人っ子だから、競争意識も薄かった。
幼稚園の運動会で母と交わした会話だが、よく笑い話として後に母から聞かされた。

「かけっこは何等だったの?」と母が聞くと、
「五等!」と嬉しそうに答えたらしい。さらに母が
「何人で走ったの?」と聞くと。なんのためらいもなく
「五人!」と。
そんなとぼけた一面を持つ子供でもあった。

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07 <第1章 「記憶」のなかの原石> 父と自転車


 
子供の頃、何度か大きな怪我をした。その中でも、父の姿が重なる怪我が二つある。
 最初は幼稚園の時だ。ちょうどスーパーマンがテレビ放送され、子供の間で人気があった頃の夏だ。自然発生的に、男の子たちは風呂敷の端を首に結び、走っては布をマントのようになびかせて喜んでいた。
そのうち、それでは飽きたらずに
「スーパーマンやから、飛ばんとアカン!」
と誰かが言い始め、滑り台の上から風呂敷マントをなびかせて飛び降りる遊びが広がり始めた。男の子同士で勇気を試す遊びでもあった。

香里団地には公園が何カ所もあり、滑り台やブランコ、鉄棒、砂場、ジャングルジム、藤棚などが設置されていた。
たまたまいつもと違う仲間と遊んでいたある日、その飛び降りる遊びをしようということになった。何度か私もその遊びにチャレンジして成功していたから、ためらいもなく参加した。しかしその日の滑り台は、それまで成功していた公園のものと違い、少しだけ背が高かった。飛び降りて地面に着地したとたん、激痛で立てなくなった。

友達が母を呼びに行き、おんぶされて病院に行くと、両足にヒビが入っていた。両足共にギブス。まだ幼稚園だったから、松葉杖は与えられなかったように思う。移動は親が私をおんぶしたのだろう。通院期間が夏休みに重なり、勤務していた学校が休みになった父が、通院の担当になった。
診察の度に私の小さな子ども用自転車を父がこぎ、私は後ろの席で父につかまって通院する生活が一ヶ月ほど続いた。

日頃は酒を呑んでいる姿、怒鳴っている姿、夫婦げんかをしている姿しか知らない私が、初めて父の愛情を肌で感じた出来事だった。
そして「一人っ子は甘えられない」「甘えてはいけない」と思っていた私にとって、嬉しい時間でもあった。

さらに小学校3年生の時も、忘れられない大怪我をした。
ローマ大会に続き、東京オリンピックでもマラソンで優勝した裸足の王者アベベ。彼が、びわ湖毎日マラソンに参加していた日の出来事だ。
ちょうど日曜日で学校は休み。一人っ子仲間のK君と、自宅前の空き地で遊んでいた。近所の家々からは、マラソンの実況中継が聞こえていた。実況の音声を遠くで聞きながら、たまたま空き地に生えている松の枝が目に留まり、鉄棒代わりにぶら下がろうとした瞬間、手がすべった。

後ろ向きに地面に落ち、頭を打ったのだろう。少しの時間、失神していた。我に返ると手が痛い。ふと見ると、右腕の前腕部にある二本の骨が両方とも折れて手が変形していた。K君も「大丈夫?」と心配そうに僕の顔をのぞき込む。大丈夫であるはずはないが、驚いて逃げずに私が意識を回復するまで傍にいてくれたのは一人っ子の優しさだと今でも思う。

痛みよりも手の変形に驚いた私は、家に駆け込み父に腕を見せた。父も驚いて、あちこちの医者に電話をかける。日曜日だから殆どは休診日なのだ。やっと近くの市民病院の当直が外科の先生だとわかって、そこに直行した。
応急処置で骨を接いでくれたが、二本とも折れているから近いうちに手術して、金具で骨を固定するという話だった。父は自分が柔道をしていたときに肘を骨折した経験から、骨に関することは接骨医が一番だと考えていたようで、同意しなかった。

数日後、父が見つけた接骨医に、改めて父と行くことになる。
「きれいに継ぐには、軟骨で付き始めた骨を一度外して、もう一度接ぎ直すしかありませんな」
と先生が言う。
「お願いします」
と父が言った時には驚いた。そんな無茶なと、子供ながらに思った。でも選択肢は無かった。

後ろから父が私の身体を支え、前から先生が腕を引っ張る。継ぎなおす度にレントゲンを撮り、何度か微調整をする。あまりの痛さに思わずうめき声が出た。
でもそのおかげで、二本の骨は真っ直ぐきれいにつながった。

気性の激しい父だったが、愛情も深かった。通院のために私を乗せて自転車をこぐ姿、接骨院で私を後ろから支えていた父の姿が忘れられない。
そんな父も、母の死から十年後に亡くなった。私が40歳の時だった。

仮にどんな親であったとしても、一般的に言って親が早く逝ってしまうことほど子供にとって辛いことに違いは無い。

きっと両親は「お前には親の老後を見るだけの余裕がないだろう。だから、少しだけ人生を楽にしてやるよ」
そう思っていたのかなと、両親の死後、時々思う事がある。

私の年齢になると、親の健康を気遣い、場合によっては介護をしなくてはいけない状況も不思議では無い。
それは子供にとってある意味大切な事でもあると同時に、大変な負担でもある。

確かに、経済的にも精神的にも時間的にも、私には親の面倒をみる余裕は無いのかもしれない。でも、やはり親がいてくれる有難さは、自分が年齢を重ねていくにしたがって、増していく。

親孝行、したいときには親は無し
そのとおりだなと、つくづく思う。

私を後ろに乗せて懸命に子供用自転車をこいでいる父の姿。
父もまた癌だった。体質というよりも、ウイルス性肝炎に気づかずにいた長年の結果の肝臓がんだった。母の死を一緒に看取った父。入院してから1週間後に迎えた最期。
亡くなる数日前に私に父は聞いた。

「俺は癌か?」

私は、迷うことなく伝えた。
「違うよ」

癌であることは、当然父は解っていることを私は理解していたが、違うと敢えて伝える事が私の最後の親孝行だと思っていた。父は、安心したような顔をしていたのが印象的だった。

その会話が、父との最後に交わした言葉だった。間もなくして意識が無くなった。
そして数日後、父は私が病室を離れた約1時間の間に息を引き取った。きっと最期の姿を見せたくなかったんだね。
それは私が父の質問に答えた父なりの、男親としての思いやりだったんだろうと思っている。

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