2014年1月6日月曜日

05 <第1章 「記憶」のなかの原石> 微かな振動の記憶


小学校二年生の時だっただろうか。突然ピアノが我が家にやってきた。
ピアノは縦型でいわゆるアップライト型というものだ。親がどこでどう楽器を手配し、先生を誰に紹介してもらったのかは、わからない。
オルガンのアクロバティックな練習にも、限界が来ていた頃だ。
私が望んだのだろうか?
いや、おそらく両親が情操教育の一環と考えて、きちんとピアノを習わせようとしたのだろうと思う。何度も夫婦げんかをした結果としての結論だったのかもしれない。

香里団地の我が家にピアノを運び入れるのは、とても大変な作業だった。
二階部分に置くしかないのだが、階段が狭いことと楽器の向きを変えるスペースが取れないことが理由で、クレーンで持ち上げて二階のベランダから入れた。
まだまだピアノが普及していない時代。
ましてや男の子の家にピアノがやってきたわけだから、ご近所さんも見物に来るやら大騒ぎだった。

やっとのことでピアノ搬入の一大イベントも終わり、母が「弾いてみれば」といいながら黒塗りの蓋を開けてくれた。 そこには真新しい白い鍵盤と黒い鍵盤が並び、輝いていた。
嬉しさと気恥ずかしさが入り混じった気持ちで、そっとひとつの鍵盤を押さえると、聴こえてきたのは紛れもなくオルガンとは違う澄んだ音だった。

初めて間近で聞くピアノの音。
実に新鮮な響きだった。
指先にかすかな振動をともなって伝わったその音は、子供の私を感動させるには充分だった。

ピアノは弦をハンマーといわれる部品で叩くことで音が出る。つまりその時感じた微かな振動は、ハンマーが弦を叩くときのものなのだ。
作曲の仕事をするようになって、あの時の音と共通するものがあることに気がついた。
それは例外なく誰もが最初に聴く音。母親の胎内にいるときに聴いている子宮の中の音だ。胎児にとっては音楽といっても良いかもしれない。

胎内の音のほとんどは、血液などが体内を流れる時に発する「ザー」という“ホワイト・ノイズ”に近いものだ。これは海辺で聴こえる波の音にも、川の流れの音にも似ている。
その音に母親の心臓の音、母親が話す声、外から伝わるさまざまな音が加わり、胎児の聴く音楽になる。胎児はそれらを聴覚だけではなく身体全体を通して、胎内に響く音楽として聴いていたはずなのだ。
この世に生を受け、成長と共に様々な記憶が蓄積される。胎内で聴いた音楽の記憶は急速に薄れていく。しかし何かのきっかけで呼び覚まされることがある。

聴覚だけではなく、身体の一部を伝わる振動と共に聴こえたピアノの音…。
私にとっては、まさしく胎内の音楽の記憶が、あの瞬間に呼び覚まされたことにほかならない。

呼び覚まされる記憶は、私が音楽を創るうえでの大きな要素のひとつだ。記憶は懐古とは異なる。子供の頃から現在まで、見たもの感じたこと、考えたことなどさまざまな意識と無意識の蓄積が、私にとっての「記憶」。音楽を創る「原石」の一つになっている。

私はその原石から創るべき音楽をイメージし、その音に「想い」を巡らせる。
想いを巡らせることは、自分の心の声に耳を澄ませることでもある。
たとえば父や母の人生に想いを巡らせ、自分の人生を重ね合わせてみる。
子供の頃にはわからなかった、父や母それぞれの喜びや苦悩、時には悲しさまでも少しずつ見えてくる。
同じように、私の想いと重なり合う人たちの記憶に想いを巡らせば、より多くの人たちと共有できる音楽を創る糸口になるはずだ。そう思って、今日も想いを巡らせる。

記憶という原石は、私だけの特権ではない。
誰もが持っている大切なものであり、そこには悲しさや苦悩、怒りなどとともに、生きる喜びや希望へとつながるヒントが隠されているように思う。
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