2014年1月9日木曜日

07 <第1章 「記憶」のなかの原石> 父と自転車


 
子供の頃、何度か大きな怪我をした。その中でも、父の姿が重なる怪我が二つある。
 最初は幼稚園の時だ。ちょうどスーパーマンがテレビ放送され、子供の間で人気があった頃の夏だ。自然発生的に、男の子たちは風呂敷の端を首に結び、走っては布をマントのようになびかせて喜んでいた。
そのうち、それでは飽きたらずに
「スーパーマンやから、飛ばんとアカン!」
と誰かが言い始め、滑り台の上から風呂敷マントをなびかせて飛び降りる遊びが広がり始めた。男の子同士で勇気を試す遊びでもあった。

香里団地には公園が何カ所もあり、滑り台やブランコ、鉄棒、砂場、ジャングルジム、藤棚などが設置されていた。
たまたまいつもと違う仲間と遊んでいたある日、その飛び降りる遊びをしようということになった。何度か私もその遊びにチャレンジして成功していたから、ためらいもなく参加した。しかしその日の滑り台は、それまで成功していた公園のものと違い、少しだけ背が高かった。飛び降りて地面に着地したとたん、激痛で立てなくなった。

友達が母を呼びに行き、おんぶされて病院に行くと、両足にヒビが入っていた。両足共にギブス。まだ幼稚園だったから、松葉杖は与えられなかったように思う。移動は親が私をおんぶしたのだろう。通院期間が夏休みに重なり、勤務していた学校が休みになった父が、通院の担当になった。
診察の度に私の小さな子ども用自転車を父がこぎ、私は後ろの席で父につかまって通院する生活が一ヶ月ほど続いた。

日頃は酒を呑んでいる姿、怒鳴っている姿、夫婦げんかをしている姿しか知らない私が、初めて父の愛情を肌で感じた出来事だった。
そして「一人っ子は甘えられない」「甘えてはいけない」と思っていた私にとって、嬉しい時間でもあった。

さらに小学校3年生の時も、忘れられない大怪我をした。
ローマ大会に続き、東京オリンピックでもマラソンで優勝した裸足の王者アベベ。彼が、びわ湖毎日マラソンに参加していた日の出来事だ。
ちょうど日曜日で学校は休み。一人っ子仲間のK君と、自宅前の空き地で遊んでいた。近所の家々からは、マラソンの実況中継が聞こえていた。実況の音声を遠くで聞きながら、たまたま空き地に生えている松の枝が目に留まり、鉄棒代わりにぶら下がろうとした瞬間、手がすべった。

後ろ向きに地面に落ち、頭を打ったのだろう。少しの時間、失神していた。我に返ると手が痛い。ふと見ると、右腕の前腕部にある二本の骨が両方とも折れて手が変形していた。K君も「大丈夫?」と心配そうに僕の顔をのぞき込む。大丈夫であるはずはないが、驚いて逃げずに私が意識を回復するまで傍にいてくれたのは一人っ子の優しさだと今でも思う。

痛みよりも手の変形に驚いた私は、家に駆け込み父に腕を見せた。父も驚いて、あちこちの医者に電話をかける。日曜日だから殆どは休診日なのだ。やっと近くの市民病院の当直が外科の先生だとわかって、そこに直行した。
応急処置で骨を接いでくれたが、二本とも折れているから近いうちに手術して、金具で骨を固定するという話だった。父は自分が柔道をしていたときに肘を骨折した経験から、骨に関することは接骨医が一番だと考えていたようで、同意しなかった。

数日後、父が見つけた接骨医に、改めて父と行くことになる。
「きれいに継ぐには、軟骨で付き始めた骨を一度外して、もう一度接ぎ直すしかありませんな」
と先生が言う。
「お願いします」
と父が言った時には驚いた。そんな無茶なと、子供ながらに思った。でも選択肢は無かった。

後ろから父が私の身体を支え、前から先生が腕を引っ張る。継ぎなおす度にレントゲンを撮り、何度か微調整をする。あまりの痛さに思わずうめき声が出た。
でもそのおかげで、二本の骨は真っ直ぐきれいにつながった。

気性の激しい父だったが、愛情も深かった。通院のために私を乗せて自転車をこぐ姿、接骨院で私を後ろから支えていた父の姿が忘れられない。
そんな父も、母の死から十年後に亡くなった。私が40歳の時だった。

仮にどんな親であったとしても、一般的に言って親が早く逝ってしまうことほど子供にとって辛いことに違いは無い。

きっと両親は「お前には親の老後を見るだけの余裕がないだろう。だから、少しだけ人生を楽にしてやるよ」
そう思っていたのかなと、両親の死後、時々思う事がある。

私の年齢になると、親の健康を気遣い、場合によっては介護をしなくてはいけない状況も不思議では無い。
それは子供にとってある意味大切な事でもあると同時に、大変な負担でもある。

確かに、経済的にも精神的にも時間的にも、私には親の面倒をみる余裕は無いのかもしれない。でも、やはり親がいてくれる有難さは、自分が年齢を重ねていくにしたがって、増していく。

親孝行、したいときには親は無し
そのとおりだなと、つくづく思う。

私を後ろに乗せて懸命に子供用自転車をこいでいる父の姿。
父もまた癌だった。体質というよりも、ウイルス性肝炎に気づかずにいた長年の結果の肝臓がんだった。母の死を一緒に看取った父。入院してから1週間後に迎えた最期。
亡くなる数日前に私に父は聞いた。

「俺は癌か?」

私は、迷うことなく伝えた。
「違うよ」

癌であることは、当然父は解っていることを私は理解していたが、違うと敢えて伝える事が私の最後の親孝行だと思っていた。父は、安心したような顔をしていたのが印象的だった。

その会話が、父との最後に交わした言葉だった。間もなくして意識が無くなった。
そして数日後、父は私が病室を離れた約1時間の間に息を引き取った。きっと最期の姿を見せたくなかったんだね。
それは私が父の質問に答えた父なりの、男親としての思いやりだったんだろうと思っている。

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