2014年1月1日水曜日

01 <第1章 「記憶」のなかの原石> いか焼きが宙を舞う


私は昭和31年に、大阪・豊中市の曽根という町で生まれた。
家は伊丹飛行場の近く。着陸ルートのほぼ真下にあったため、幼い頃の記憶の中に、頭上を低空で飛ぶプロペラ機の姿がある。護岸されていない小川の土手で遊びながら、のんびりとよく飛行機を見上げていた。現在のような、過密な運航スケジュールではなかったからこその記憶でもある。

父親は当時、中学校の教師をしていた。
その頃の世の中は、神武景気や岩戸景気などと呼ばれる好景気の時代だったようだが、父の仕事はそんな世情とは無縁だった。
どんな家だったのかあまり記憶は無いが、今考えると四畳半一間ほどの小さな借家だったと思う。外壁も板張り。豊かでは無かったけれど、そんな家庭も珍しくない時代だった。

父は人情にも篤かったが、とんでもなく「激しい」気性の人だった。
母も負けてはいなかった。
当然、夫婦げんかが毎晩のように繰り広げられる事になる。
アーケード・ゲームにもなっている「ちゃぶ台返し」の世界は、子供の頃の私にとっては現実そのもの。丸いちゃぶ台が宙を舞う光景は、我が家では日常茶飯事だったのだ。

そんな日常は変わらないまま、私が3歳の時に同じ大阪府内の枚方(ひらかた)という町に引っ越すことになった。
当時としては最先端のニュータウン。大規模に開発された集合住宅群として誕生した「香里団地」が、新しい生活環境となった。香里団地は、その規模の大きさで東洋一を誇っていた時代もあり、全国の先がけでもあった。

いくつかの違った形の棟が建ち並んでいたが、我が家はテラスハウスだった。
小さいながらも庭があり、2階建て。1階部分は6畳ほどのリビング・ダイニング。その奥に小さく細長い台所と風呂場があった。2階へ上がる階段横にトイレがあり、2階は6畳と4畳半の和室だった。
そんな家が6軒連なってひとつの棟になっていた。言ってみれば西洋風の長屋だが、モダンな住居だったと思う。
仲のよいご近所の母親同士が、勝手口を行き来して、米や調味料の貸し借りをよくしていた。今ではめったに見られない光景だろうが、懐かしくもあり、ご近所付き合いの大切なひとコマのような気もする。

父はずいぶん思い切ったことをしたものだと思う。
30歳前半だった父の給料では、かなり厳しい家賃だっただろうに。
みんなが豊かさを求めて、必死で生きていた時代。
我が家も、例外ではない。
生活が大変だったから、父は学校の授業が終わった後、自動車教習所で指導員のアルバイトをしていた。時々、ほろ酔い気分で大阪名物のひとつ「いか焼き」を買って帰ってきた。子供の私には、ひそかな楽しみでもあった。

ところが、そんな日でも些細な事がきっかけで、夫婦げんかが始まるのだった。
父は横浜生まれ。母は博多生まれ。
けんかの時は生まれた土地の言葉が出る。

「なんば、しよっと! あんたと一緒にいたら泥の船に乗ってるのと同じたい」
「このやろう! 調子に乗るんじゃないよ。あんたあんたって言いやがって、俺をなめてんのか、馬鹿野郎」

さすがに、ちゃぶ台は押し入れの中に眠っていたが、その代わりにお土産のはずの「いか焼き」が宙を舞っていた。せっかくの楽しみだったのに、食べられなくなる日もしばしばだった。

子供にとって夫婦げんかは辛い。
「なんであんなに、けんかばっかりしてるんやろ、なんで別れへんのかな?」
私には不思議でたまらなかった。
ただ仲が良い日もあるので、大人の複雑さが理解不能だった。
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