2014年1月4日土曜日

04 <第1章 「記憶」のなかの原石> 不思議な音空間


空海(弘法大師)が開いたことでも有名な、和歌山県の高野山。
真言宗の総本山でもあり、20047月には『紀伊山地の霊場と参詣道』として世界遺産に登録された。
父方の祖父は、その高野山にある「成福院(じょうふくいん)」という寺の住職をしていた。
そんな関係で、小さい頃から春夏そして冬休みのほとんどを高野山で過ごしていた。1年の3分の1を過ごしていたことになり、私にとっては第二の“ふるさと”と言える土地でもある。
山上の小さなこの町には、宿坊(しゅくぼう)という宿泊できる寺院が現在53(それ以外の寺院を含めると113)あり、まさしくお寺の町だ。

小学校に入ると本堂横の小さなスペースを自分の部屋にしてもらい、私は仏像や位牌、遺骨などと隣り合わせの空間に、ひとりで寝起きしていた。自分から望んだこととはいえ、やはり夜は怖かった。
しかし祈りの場所である“本堂”という空間は、子供の私にはとても不思議であり、なぜか気持ちが落ち着く場所でもあった。

朝は必ず勤行の始まりを告げる半鐘の音で目を覚ます。
布団の中でまだまどろんでいると、まず聲明(しょうみょう)を唱える声が流れ始める。聲明は簡単にいえば仏教音楽のひとつで、お経にメロディーが付いたようなものだ。

その響きは、複数の僧侶たちが出す声の音程や動きが微妙にずれることによって生じる独特な荘厳さが特徴でもあり、僧侶の数が増すほどその荘厳さも増していく。
聲明の途中では『妙鉢(みょうはち)』というシンバルのような鳴り物などの音も時折聞こえてくる。そして読経の声や『りん』という小さな鐘の音などが加わり“不思議な音世界”を構成していく。
そんな空間と音世界は、後の私の音楽に大きな影響を与えることになった。
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2008年にリリースした「そらとうみのあいだ」という自身のアルバムに、聲明を使って作曲した”風の庭”という楽曲を収録しているが、抜粋を下記でお聴きいただけるので、もしご興味があればコチラをクリックを(この映像は「そらとうみのあいだ」のリリースに合わせて行った東京芸術劇場中ホールでのコンサートの際に使用したものの一部分)
このアルバムは、レクイエム・プロジェクトとは違うもう一つのライフワーク、広い意味でのアジア(ユーラシア大陸を含む)をテーマにした音楽で構成したアルバムで、全12曲すべて一部分を試聴していただけるので、お聴きいただければ幸いである。
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お寺という環境を生まれながらに持っていた私だが、実は幼稚園はカトリック系だった。
現在は建物も無くなってしまったが、香里団地の中にあった聖母女学院幼稚園に通っていた。その幼稚園では専門家を招いて、希望者にハーモニカと木琴を教える活動などもやっていて、私も習っていた。専門的な英才教育とはほど遠いが、音楽に無縁だった両親が反対しなかったおかげで、音楽が身近な存在となっていった。

カトリックの幼稚園が気に入ったのだろうか、卒園後も数年は日曜学校に通っていた時期がある。日曜学校では、クリスマスになるとキリスト生誕の劇に参加したり、賛美歌も歌った。
その頃の日常は「天にまします我らの父よ…」と祈りを捧げる場所と接点を持ち、学校が休みになると「仏説摩訶般若波羅蜜多心経…」と唱える祈りの空間で生活するというものだった。
無節操なようにも思えるが、私の中では子供の頃から何の違和感もなかった。それは、高野山という場所の特殊性にあるのかもしれない。

高野山の「奥の院」は、弘法大師の御廟がある場所まで、約2キロの参道両脇に無数の墓がある。宗旨宗派を問わないというのが特徴で、戦国大名をはじめ親鸞や法然など、一般の人たちも含め真言宗以外の様々な人のお墓が昔から存在している場所だ。

宗旨宗派を問わず「祈りの場」として存在する高野山。子供心にも、何か大きなものを感じていた。「生命」の不思議さや尊さを遊びの中で教えてくれた里山と同様、高野山という場所を生活環境として持っていたことは、私にとっては大きな意味を持つ。
批判的な見方も当然あると思うが、クリスチャンでもない私が「レクイエム」を作曲した背景には、そんな環境も少なからず影響している。
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