2014年1月28日火曜日

14 <第2章 遠回りのはじまり> 不登校というサイン

高野山の春は平地に比べると遅い。四月初旬は、桜のつぼみもようやくほころびかける頃だ。
入学式の日は、雪になった。

当時の高野山高校は、「普通科」「宗教科」「商業科」の3つに分かれていた。私はもちろん「宗教科」だ。高野山で生まれ育った人はもちろん、全国から集まってきた高野山真言宗の寺の息子たちなど、様々な境遇の生徒たちが親元を離れて集まっていた。
剣道部もあり、入部してすぐにレギュラーになり県大会に出場したが、中学生と高校生の体格の違いに圧倒された。
音楽のA先生に言われて、「聖歌隊」にも関わっていた。仏教聖歌を歌う合唱部のようなクラブだ。仲間たちと入部早々、倉敷市民会館のこけら落としにも出演した。

 仲の良い友だちも何人か出来た。その友だちの中にベーシストになったバカボン鈴木がいる。彼は寺の息子ではなかったが、得度して恵光院(えこういん)という寺に入り、寺の仕事をしながら高校に通っていた。私が住む成福院と近かったこともあり、よく学校の行き帰りを共にした。
 でもその鈴木くんが音楽の道に進み、名前はよく知っていた“バカボン鈴木”になっていることは、10年ほど前まで知らなかった。
 そのことを教えてくれたのは、後藤太栄(ごとう・たいえい)くんだった。彼は西禅院(さいぜんいん)という寺の息子で、とても仲が良かった。
彼は昔からとても才能豊かな人物だった。アマチュア無線や天体観測の趣味があり、行動はいつも積極的。
 そんな友人たちに囲まれ、大人から見れば何の問題も無いように思ったことだろう。

 一日の生活はというと、朝の勤行をして朝食を済ませ、学校へ行く。昼休みは、寺に帰ることが出来たので、昼食に戻ることも多かった。クラブがある日は活動を終えてから寺に帰る。
高野山の寺の殆どは宿坊といって、参拝の方たちが宿泊できるようになっている。成福院も宿坊であり、宿泊のお客さんが多い日はお膳を出したり、布団を敷いたりするお世話を手伝う。夕食を食べ、宿題を片付けて風呂に入り、就寝。その繰り返しが日常だ。食事は私の希望で、寺で働く人たちと同じテーブルで、同じ食事を摂った。後継ぎということで、特別な扱いをされたくなかった。
連休や夏休みは、忙しいけれど充実した時間だ。宿泊するたくさんの参拝客のお膳を手分けして運び、布団を敷く。そのほか、各部屋を回り、翌朝勤行時の供養に関する説明をし、申込みを受付けていく。
これは言ってみればお金を戴く営業的なお仕事でもある。高校生の私に出来るかどうか不安だったが、意外にお客さんの反応は良く、やり甲斐もあった。

学校と寺だけが生活環境だった。
友だちたちも寺の仕事があるから、何かを一緒にして遊ぶという時間もない。ましてや山の上の小さな町だ。高校生が楽しめるような娯楽など、当時は無い。
楽しみは、月に1回ほど休みの日に1人で大阪まで出かけることだった。出かける度に、たくさん映画を見た。その頃はハリウッド映画よりもヨーロッパの映画が全盛時代。イタリアやフランスの映画を主に見ていた。必ず最低でも二本は見る。
映画を見た後は書店やレコード店に立ち寄り、興味を惹かれるレコードや楽譜などがあれば小遣いの許す範囲で買い、また高野山に戻るのだ。

 寺での生活や仕事は好きだった。寺を将来継ぐということも、納得していたはずだったが、自分の中で「何かが違う」と感じ始めていた。
「本当にこれでいいのか?」
そんな心の声が聞こえ、葛藤していた。
一人っ子ゆえ、人一倍独立心の強かった私の心の中に、自分でゼロから人生を切り開く事を断念せざるを得なかった虚しさが、日々蓄積されていたのかもしれない。

もうひとつ私を悩ませていたのは、母が苦労している姿だった。
お客さんや寺で働く人たちの食事の準備や洗濯、各部屋の掃除、宿泊客の食事の用意に忙殺されていた。
その一方で、父と同じように激しい気性の祖母との関係も複雑だった。父は祖母とも親子げんかをし、母とはいつものように夫婦げんかをしていた。
高野山に家族で移り住む前でも同じ状況はあったが、その時よりも深刻な状態のような気がしてならなかった。
このままでは家族がバラバラになっていく。切実にそう感じていた。

一番多感な時期だ。
どうして父が寺を継ぐ決意をする必要があったのか?
父もまた葛藤しているように思えてならなかった。
私は、尊敬していた祖父の思いを継いでいきたいと思う反面、寺にいることで家族が崩壊するくらいなら、元の生活の方がまだ良いのではないか?と思っていた。

忙しい夏休みが終わり、2学期が始まると、急速に学校やクラブにも興味が無くなっていった。昼休みに寺へ戻ったきり、学校へ行かない日が少しずつ増えていき。次第に休みがちになっていく。
今で言う「不登校」の状態に近かった。

それは学校への不満ではなく、高校1年の私が両親や祖父母に送ったサインだったように思う。
「自分がやりたい仕事を見つける道を歩みたい」
日増しにその気持ちがどんどん強くなっていく。
その気持ちを実現するためには、レールを外れるしか方法が無いことは明らかだった。でもそれは大人たちにとっては「わがまま」なことであり、子供の「たわごと」としか受取られないこともわかっていた。
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 話は変わるが、高野山高校時代の仲間数名と、つい先日会う機会を得た。当然のことだが、みんな各地で立派な住職や社会人になっている。とても楽しく、不思議な時間でもあった。なぜなら私にとっては、あの高校1年生から実に41年ぶりの再会だったから。
 私が東京に仕事場を移してからも親しくしていた後藤太栄くんは、大学卒業後は高野町町会議員となり、寺を継ぎ、高野山の世界遺産登録にも尽力し、高野町長もしていた。
 拙作のレクイエムを神戸で初演した2010117日には、わざわざ家族を連れて聴きに来てくれた。その年、高野町長の2期目の任期半ばでALSという難病を発症し、10月に53歳の若さで早逝してしまった。
病と闘う間、彼から時折届くメール。人生を、そして仕事を全うできない事への無念さが、言葉の端々に感じられ、私もまた辛かった。

彼の希望で、彼が高野町長時代に「時音(ときね)」という町内全域に時を告げる音楽を作った。それは朝8時、正午、夕方5時に流れる音楽で、町内の人にも、観光で訪れる人にも概ね好評だっとようだが、彼の死後、町長が変わり、現在は聴くことが出来ない。

その音楽を、いずれYouTubeにアップしようと思っている。

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