2014年4月28日月曜日

25<第3章 レクイエムへ至る25年> 着ぐるみは人格を変える?

大学卒業後、3年間の東京での修行時代を経て27歳の時に関西に戻った私は、それから25年という時間をかけてレクイエム・プロジェクトに導かれていく事になる。

 関西に戻り、カルチャースクールでの仕事を始めて、それまでやったことが無いような体験もずいぶんした。子供向けの教室では一般的にいわれる「販促イベント」が大切で、体験教室などを行う。私が勤めていたスクールは京都市内に数カ所拠点があり、そのなかにはショッピングセンター内に開設された教室あった。
 家族連れが多く集まる場所でもあり、集客にはうってつけだ。イベントに参加してもらうためには、まず子供たちを呼び込む必要がある。その常套手段は“着ぐるみ”だ。

 ゆるキャラなどの言葉すら当然無く、くまモンも存在しない時代。しかしいつの世も着ぐるみは子どもたちに人気だ。
 夏に入った時期に行ったイベントで、私は生まれて始めて着ぐるみを着た。
 可愛いクマの着ぐるみだったと思うが、それを着て教室前のスペースで手を振りながら音楽に合わせて踊りながら子供たちに愛嬌を振りまく。その横で女性社員がチラシを配ってイベントへの参加を呼びかける仕組みだ。
 「わぁ、可愛い」と近寄ってくる女の子もいれば、握手をしにくる子供もいる。ひどいのは、人間が入っていることを知っている小学生ぐらいの男の子だ。着ぐるみを叩きにくるから要注意だった。

 着ぐるみを着るまでは恥ずかしさがあったのだが、着てしまえばその中から見える風景はまるで別世界。恥ずかしいどころか、逆に「可愛いクマになりきってやろう」と考え始めるから不思議だ。自分の心理的な変化に驚いたほどだ。人格が変わったのか?と思えるほどだった。
 ただ、着ぐるみの中はとても暑い。夏場は少し動いただけでも汗が噴き出す。集まってきた子供たちと一緒に、音楽に合わせて踊ったり飛んだり跳ねたり…。楽しい反面、それは灼熱地獄との闘いだ。頭までクラクラしてくる。でもなぜか快感でもあった。
 まったく違う人格の私がそこにいた。なんでも経験してやろうと思って引き受けた役割だったが、自分が知らない自分に気づいたのも事実だ。
 意外に知らない自分の内面を引き出す楽しさを実感したのも、この時が初めてだった。

 その他にも企画開発室長として、様々な仕事に取り組んだ。
 幼児を対象にした総合的な教育プログラムの開発では、それまで殆ど知らなかった世界に足を踏み入れることになる。たくさん絵本も読んだ。新しい子供のうたやリズム遊びなどもいろいろ知る。
 スタッフは美術、英語、幼児教育、音楽などを大学で専攻した若い女性が中心。ミーティングのなかで彼女たちの意見にも耳を傾け、カリキュラムの骨組みをまとめていく。それまで学んだ音楽だけでは経験できなかったことが、後々きっと役立つだろうという予感もしていた。

 幼児もたくさん指導した。ヤマハの音楽教室などで講師をしている人たちにも、より専門的な理論も教えた。指導者の養成もした。
 幼児から大人、そして指導者までをも含めた幅広い人たちに、音楽を接点に教える機会を持つことは、私にとっては多くのことを逆に教えてもらう時間でもあった。
 
 その他、コンサートもたくさん企画していくことになる。カルチャースクールでは、クラシック音楽の様々な楽器の講座があった。ところが私が嘱託社員になるまでは、講師同士が交流できる機会もあまりなかったようで、ただ楽器のレッスンをする場所という何とももったいない状態だった。
 企画開発室で仕事をするようになってまだ間もない頃、担当の部長にひとつの提案をした。
 「講師間の交流も兼ねて、定期的に講師を中心にしたコンサートを企画していきませんか?生徒募集につなげる販促イベントとしての意味合いもあるし、他の音楽教室には真似できないものが必ずできると思います。」
 部長も興味を示してくれた。そしてさっそく第一回のコンサートを企画することになる。

 最初のコンサートのテーマは「東西の響きと出会い」。
 日本と西洋の楽器によるコンサートだ。縦に構える木製の楽器“尺八”と“リコーダー”、弦をはじいて音を出す“琴”と“アイリッシュ・ハープ”という四種類の楽器による一風変わったコンサートでもある。
 それぞれのソロ曲、尺八と琴、リコーダーとアイリッシュ・ハープの二重奏、そして全員がアンサンブルをする新曲という構成で企画し、新曲は私が作曲するという内容だ。出演を依頼する予定の講師に趣旨を説明し、協力を求めていく。講師陣も運営サイドからの初めての企画提案に驚きつつも興味を示してくれ、是非成功させようと乗り気になってくれた。

 新曲はあまり難解な現代音楽にならないようにしたかった。何が何でも自分の価値観だけで作品を作ろうとは思わなかったのだ。
理由は3つ。1つは私の音楽世界を聴いてもらうための演奏会ではないこと。2つ目は講師陣が現代音楽を演奏する機会が少なかったこと。もう一つは、予想される来場者も同様に現代音楽を殆ど聴いた経験がない人たちであることだ。
 東洋と西洋の楽器を一つのコンサートで聴けることに興味を持ってもらいたかったし、それぞれの楽器が持つ伝統やその楽器のために書かれた古典的な楽曲をとおして、音楽の豊かさと面白さを少しでも伝えたかった。

 妥協するわけでは毛頭無い。ただ、与えられた条件や制約がある中で自分ができる表現方法を見つけることも、駆け出しの作曲家としてスタートを切るにあたり、大切にしたいとも思っていた。そのスタンスは今も変わっていない部分があるし、東京で活動するようになった後も、プロデュースする立場の仕事に役立つことになっていく。

初めての企画コンサートでの新曲は、東西4つの楽器が対話し時には葛藤しながらも、最後にはそれぞれが融合していく音楽を目指した。異なる風土や歴史を持つ楽器が、柔らかな風のように寄り添い、時には激しく渦巻く作品。
曲名は「風歴(ふうれき)」。関西に戻って初めて作曲した楽曲だ。そして「風」をテーマにした楽曲は、その後何曲か作曲することになり、新たな出会いへとつながるきっかけともなっていく。


 コンサートは思った以上に好評で、シリーズとして約1年の間に5回ほど企画し、2年ほど続けることになる。フルートの講師陣だけによるものや、母校・京都芸大の後輩たちの作品を演奏するものなど、工夫しながら行った。そんな活動をきっかけに、演奏家の人たちとの交流が始まり、広がっていくことになる。

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過去3話は

2014年4月3日木曜日

24<第2章 遠回りのはじまり> まわれ右

廣瀬先生は「まず10年間、音楽的な部分も含めて自分の足もとをしっかり見つめなさい。10年続ければ何かが見えるよ。」と私に常々語っておられた。
文化庁の芸術家国内研修員として始まった最初の東京生活も3年目を迎えた秋、私は次のステップをどう踏み出すかを考えていた。
いつまでも先生のお世話になっているわけにもいかない。自分にとって「足もとを見つめ、作曲家としてのスタートを切る」ことは、まず関西に戻って経済的にもきちんと自立し、自分の道を自分で切り拓くことでもあった。
 東京にそのまま残ることも考えたが、廣瀬先生に甘えてしまいそうで嫌だった。結論として関西に戻る選択をする。

 まさしく“まわれ右”だ。
 これからという時に、東京まで行っていながら再び関西に戻る選択。
不器用な生き方かもわからないが、その時は東京にこだわる理由は無かった。それよりも、当時はまだ関西(特に京都)で若手の地元作曲家が精力的に活動することが少なかったので、廣瀬門下の最初の弟子のひとりとして頑張ろうと考えていたのだ。

関西に戻るには仕事を見つけないといけない。
そんな時、子どもの時に使わなくなった足踏みオルガンを下さった方のご主人から、ある情報が入った。当時その方は京都の某女子大学の教授をされていて、その大学で教育学部の常勤講師(音楽)を公募しているというものだった。
 応募するためには、推薦文を書いて下さる推薦者が3人必要となる。もちろん廣瀬先生にまずお願いした。残りのお2人は、廣瀬先生がお願いして下さり、指揮者の山田一雄さん、そして作曲家の別宮貞雄さんという日本を代表する錚々たる方々が書いて下さった。お2人にはご挨拶とお願いをするため、時間を取っていただき、直接お目にかかってお話をさせていただいたが、緊張していたためか、どんな話をさせていただいたのか何も覚えていない。
結果的には、公募とはいうものの内定していた方がいらっしゃったようで、大学の講師として採用はされなかった。ただ山田一雄さん、別宮貞雄さんというお2人にお目にかかり、話をさせていただき、推薦文を書いていただいたことは、当時の私としてはあり得ないほど光栄なことだった。

さあそうなると、仕事を早く見つけないといけない。
仕事といっても就職するわけではない。音楽大学卒業生の多くは、自分の専攻の楽器などを教えながら活動するスタイルが一般的だったので、音楽教室で講師を募集しているところを探すことから始めた。さしずめ私の場合は、音楽理論やピアノなどを教えられる場所が必要だった。
後輩からの情報で、地元の楽器店が京都新聞社と提携してオープンさせたカルチャースクールがあることを知る。音楽の講座もクラシックからポピュラー、そしてジャズや邦楽まであり幅広い。それだけではなく、エアロビクス、ジャズダンスそして日本舞踊など、かなりの講座数を有していた。3年間離れただけで、ずいぶん京都も変化していた。

そのカルチャースクールの実質的な責任者と面談し、講師として雇ってもらえないかと相談すると、
「講師もしながら、企画開発室という自分が部長を務める事業部の中のセクションに入らないか」と誘われた。新しい講座の開発、幼児を対象とした総合的な教育プログラムなどを考え、実践していく仕事だった。
興味が湧いたのと同時に、いろいろな経験も積めるような気がした。ひとつだけ自分につとまるかどうか疑問だったのは、嘱託社員にならないといけないことだった。
つまり講師でもありながら、楽器店の社員という立場になる。迷う部分もあったが、まずは経験してみようと決心した。

廣瀬先生にそのことを伝え、大学3年生から6年間にわたるご指導に感謝した。東京では多くの貴重な経験とともに、オーケストラのいわゆる現代作品を2曲作曲した。
そして27歳となる年の4月。私は東京で活動するのではなく関西に戻るという選択をして、いよいよ本当の意味で作曲家としてやっていけるかどうか試されるステージに進んだ。

その選択に関して、廣瀬先生が本当はどう感じられたのかはわからない。当時を知る友人から聞いた話では、「せっかく東京に連れて行っていろんな経験をさせたのに、もったいない」と残念がられていたと、ずいぶん後になってから聞いたことがある。
私にとっては関西に戻って頑張ることは、先生の教えを守って実践するためだと思っていたのだが…。

不器用な選択だったかもしれない。真っ正直すぎたかもしれない。先生の立場で考えれば、私の選択は疑問だったのかもしれない。

かなりの遠回りをしたことは間違いない。
でも気がつけば、この歳になってもいつも遠回りをしている自分が、今もいる。