2014年5月27日火曜日

30<第3章 レクイエムへ至る25年> 壮大なスペース・ファンタジー~造形作家・新宮普さんとの出会い 2~

新宮さんとの仕事の極めつけは、やはり野外で行われた壮大でファンタジックなショーだろう。「たそがれシアター“キッピスと仲間たち”」と名付けられたそのショーは、1994年の528日に、兵庫県三田市にある青野ダムサイト公園で行われた。
新宮さんが企画・構成・演出を手がけたものだ。
私は作曲と音楽監督を担当し、主にシンセサイザーとコンピュータで20曲ほど作曲した。

舞台となる公園全体が新宮さんの作品でもある。人工湖の湖岸に作られたその公園のシンボルは「水の庭」だ。円形のごく浅いプールの中央にステンレス製で水を変幻自在に吹き出しながら動く「水の木」という作品があり、少し離れた場所には風で動く同じくステンレス製の「星の立像」という作品がある。作品の背景には湖面が水をたたえ、その奥には三田のなだらかな山々が見える。

主人公は宇宙人キッピス(フィンランド語で乾杯の意味)たち。彼らは地球に舞い降り、人間や地球上の生き物、音楽、人類が想像した機械文明などに触れる。そして宇宙へ還る直前に人間たちを招待し、「水の木」の周りでパーティーを開催するという設定でショーは進行する。
新たに風で動く装置も加えられ、人間が動かすたくさんの風変わりなオブジェが登場する。色彩豊かで奇抜なアイデアのそれらすべてが新宮さんの作品なのだ。
オブジェたちが音楽に合わせて行進したり踊ったりする。巨大な哲学者が登場して、かけがえのない生命を育む地球の大切さを再認識するように人間たちに語りかける。最後には宇宙船まで登場する大がかりなものだ。
地元の高校生やジャズバンド、和太鼓のグループやフルーティストの水越さんも出演し、音響・照明、装置、舞台監督など多くのスタッフが必要になる。

本番の半年以上前から準備を始め、新宮さんの壮大なイメージの実現に向けて、みんなが力を合わせた。ただ新宮さんの構想は関係スタッフの想像をはるかに超えている部分が多く、付いていくのが大変な面もある。最初の打合せに来ていたベテラン舞台監督が、すぐに辞めてしまったほどだ。
新宮さんは自分で舞台監督もするつもりだったが、その道のプロに任せた方が良いことを僕が伝えて、新しい舞台監督がやってきた。
この出会いが私の人生にとって後々大きなものになろうとは、その時には想像もしていなかった。

構想にまつわる凄いエピソードがある。
舞台となる公園の一角に鏡をイメージし、風で動くステンレス製のオブジェを設置することになっていた。その鏡は西の方角を向いている。
ショーは夕方6時半に始まり、夜8時に終了する予定ですべての演出が考えられていた。時間経過と共に夕日が鏡に映り、湖面を照らす計算だ。最後は満天の星空に宇宙人たちが還っていく。
ショーが開催される時期は、梅雨に入る頃で雨の予想もしなくてはならない。雨が降ればショーは野外で行うために当然中止となる。雨が降らなく、時期的には曇っている可能性は高い。

本番まで残り一ヶ月ほどになった頃、打合せで新宮さんに質問した。
「もし曇っていて夕日が出ていない場合は、照明で鏡に光をあてますか?」
新宮さんの回答は実にシンプルだった。
「大丈夫、必ず晴れる!」
返す言葉はもちろん無い。スタッフ全員は本番直前まで天気が心配だったが、新宮さんはまるで気にしていない。

本番当日の2日前は雨、前日は曇りだった。ところ本番当日は朝から晴れわたり、新宮さんの計算通り夕日が風で動く鏡に反射され、その鏡の奥に広がる湖面を夕日が照らしていた。そして夜になると満天の星が夜空を覆い、宇宙船にのってキッピスたちは還っていった。
「新宮さんは、きっと宇宙人だな」と私は心底思った。もちろんスタッフ全員そう思ったに違いない。

 このショーの模様は新聞各紙に取り上げられ、本番の模様はNHK教育テレビで放送された。

それから3年後の秋、今度は野外ではなくホールの中で新宮さんの壮大な世界が繰り広げられる。新宮さんの企画・構成・演出より彩の国さいたま芸術劇場で行われた「星のあやとり~五つの惑星への旅~」と題された公演だ。
これは同劇場の開館三周年記念企画として行われたもので、観客を乗せた宇宙船が、水、風、回転、音、光の5つの惑星を訪ねる旅に出かけるという設定で繰り広げられるスペース・ファンタジーだ。
私も以前同様、音楽スタッフとしてご一緒させていただいた。

題材はもちろんだが、新宮さんの世界の根底にある自然との対話…。それは宇宙につながり、すべての作品において、その場に居合わせた私たちに無限のファンタジーを与えてくれるような気がする。
 新宮さんと仕事をご一緒させていただけたことは、かけがえのない素晴らしい経験でもある。

*************************************
 




29<第3章 レクイエムへ至る25年> 風に導かれて~造形作家・新宮普さんとの出会い 1~

 今から30年前、私がカルチャースクールで企画していたコンサートの第2弾は、フルートだけで行うものだった。フルートを習おうという人たちが多かったこともあり、その教室にはフルートの講師がたくさんいた。
 また私の師匠である廣瀬量平先生が深く関わっていた、東京フルート・アンサンブル・アカデミーという日本の一流フルーティストが集まった演奏団体が牽引役となり、フルートだけのアンサンブルやフルート・オーケストラといわれる編成の演奏が全国で盛んになりつつあった。

 東京で修行をしていた頃、東京フルート・アンサンブル・アカデミーのコンサートで、私の「メロス」という三つのフルートのための作品が演奏されたこともある。またメンバーの方からは編曲の仕事を何度かいただき、複数のフルートが醸し出す響きは私自身も好きだった。そんな背景もあり、フルートの魅力を間近に感じてもらうコンサートを企画することになる。
 
 そしてそのコンサートのために、「風の記憶」という曲を作曲した。アルト・フルートという一般的なフルートよりやや低い音を出せるものを含んだ編成で、六つのパートに別れた楽曲だ。
「人々の様々な思いのこもった吐息が風となり、ある時は強く、またある時はさわさわと流れては、思いを巡らすかのように止まる。そしてまた流れていく。今日も吐息が風になる。」そんなイメージを曲に託した。 
その他にも「風のヴォカリーズ」というフルートとギターのための作品があり、関西に戻って最初に作曲した「風歴」とともに、風をテーマにした三部作となる。

「風歴」を除く二曲の初演では、フルーティストの水越典子さんが演奏で参加してくれていたが、ある時こんな相談を持ちかけられる。
「上田さんと同じように“風”をテーマにした作品を作る彫刻家がいて、作品ビデオを制作するのに映像の音楽を頼める作曲家を探しているよ。上田さんを紹介してもいいかな?」
水越さんの友人がその彫刻家の秘書をされていたので、情報をいち早く教えてくれたのだと思う。
断る理由など何もない。世界的な彫刻家と一緒に仕事ができるかもしれない…。それは夢のような話だった。
それが現実となり、彫刻家であり造形作家の新宮晋(しんぐうすすむ)さんと一緒に仕事をすることになる。
新宮さんのアトリエは、兵庫県三田市(さんだし)の中心部から外れた里山の中にある。私が育った香里団地に隣接していた里山に似ている場所だ。初めてアトリエを訪れたとき、里山に吹く風が懐かしく感じた。

風に導かれた出会いとも言える。
新宮さんは、風や水で動く作品で世界的に著名な芸術家だ。造形作家とか彫刻家とか紹介されることが多いが、そんな概念を越えていた。建築と一体になった作品もあれば、公園全体が作品というものもある。絵本の著作もある。
「かつて芸術家は画家であり、彫刻家であり、建築家でもあった」と新宮さん自らがある対談で語っておられるが、まさにそのとおりの活動をされている。

新宮さんの作品は、東京では新宿西口広場や銀座のメゾン・エルメスビルで見ることが出来るし、箱根・彫刻の森美術館や関西空港の旅客ターミナルをはじめ日本各地の美術館、ホール、公園はもちろん、海外にも多くの作品がある。中にはイタリアの客船に設置されたものまであり、航海上の先々で海を渡る風を受け、その土地の光を浴びながら動いている様子を想像すると、ファンタジーが広がる。

最初にご一緒させていただいた仕事は、新宮さんが1989年までに制作した作品をまとめた「彫刻家・新宮晋の世界」という映像作品の音楽だった。この映像作品は第2回国際ビエンナーレ「アートフィルム・フェスティバル」に出品されたが、風や水で動く作品の数々を映像で見るだけでも不思議な世界に引きこまれていく。
その映像のための作曲は、知らない自分に出会う旅に似ていた。出会ったことのない自分の音楽を発見する喜びに満ちた仕事だった。

その後も作品が増えるごとに映像は作られ、約10年間に制作された4つの映像作品すべての音楽を担当した。
そして映像以外の仕事でも、未知なる旅に誘われることになる。それは壮大なスペース・ファンタジーともいえる屋外とホールで展開された2つの作品だ。
おそらく芸術家として一番脂が乗った時期だったのだと思うが、確固たる基礎に支えられた新宮さんの柔軟で知的な感性は尽きることなく、自由にそして縦横無尽に天空を駆け巡るといった感じだった。

 まだまだ駆け出しだった私にとって、刺激的な世界との出会いでもあったと同時に、言ってみれば若造の私に対等に接して下さり、信頼して仕事を任せて下さったことに心から感謝している。(続く)

******************************


2014年5月21日水曜日

28<第3章 レクイエムへ至る25年> 初めてのイベント音楽

母が亡くなってから、映像作品やテレビCM、イベントなどの音楽を手がける機会が少しずつ増えていく。当時から関西ではそういった仕事の絶対量は、東京に比べると明らかに少なかったが、出会った方々とのつながりから仕事をいただき、自分の音楽が求められていく事は、自信にもなり嬉しいことでもあった。廣瀬先生のアシスタントとして東京で経験したこと、なかでもドラマや映画などの音楽制作現場で学んだノウハウが少しでも発揮できる仕事は、また楽しくもあった。

 最初に手がけたイベント音楽は、福井市制100周年記念式典だ。それまで60年以上続いた昭和という時代から平成に変わった年の事だ。その年に市制や町制100周年を迎える地方自治体が多く、福井市もその中のひとつ。きっかけは、カルチャースクールで私が最初に企画したコンサート「東西の響きと出会い」に出演していただいたハープ奏者・雨田光示(あまだこうじ)さんが福井市から式典の音楽に関して相談を受け、推薦してくれたのだった。

 雨田さんは福井と縁が深い方で、多くのハープ奏者を育てた方。アイリツシュ・ハープという小型のハープを日本に普及させた方でもある。その雨田さんが推薦してくださったことで、責任のある大きな仕事を経験させていただいた。
 式典は福井の過去・現在・未来を表現した映像と音楽を軸に式次第が進行していく。司会は当時の人気アナウンサーのひとり福留功男さん、ゲストとして福井市民の歌を作曲し、歌っておられたダ・カーポのお二人が華を添えていた。
私は映像とからむ部分も含めた音楽すべての作曲をし、小編成のオーケストラが生演奏する。その指揮も私の役割で、式典の模様が福井放送によりテレビで同時生中継されるということもあり、なかなか緊張感のある仕事だった。

 映像の変化や長さに合わせて音楽を指揮するという、東京のスタジオでの経験を存分に生かせる仕事でもあった。ただ式典のエンディング部分は最大の難関だったのだ。テレビ中継に合わせて構成されているので、一番長さがシビアな部分だからだ。
音楽が短くなると、CMまでの間が間延びする。長ければCMで音楽の最後の何秒かが切れてしまう。最後の音の余韻が消えた後すぐ、CMに切り替わる必要がある。
 音楽の演奏時間を映像の長さにぴったり合わせ、順調に式典の音楽をこなしていった。

そしていよいよエンディングの演奏に入って数秒経過した時の事だ。ふと押したはずの手元のストップウォッチを見ると秒針が動いていない…。
 冷や汗が出た。でもどうすることも出来ない。あとは自分の体内時計を信じて指揮をするだけだ。最後の一分ぐらいからカウントダウンするタイム・キーパーの女性の声がイヤフォンから聞こえてくる。
 「終了まで45秒…30秒…20秒…、15秒、1098321、ゼロ」
 このカウントダウンはあくまで放送用のもの。したがって最後の音の余韻を計算して、残り一秒半ほどのあたりで音が鳴り終わっている必要がある。

 うまくいっただろうか?と不安でもあったが、何とかうまくいったはずだった。
スタッフに
 「最後の長さは大丈夫でしたか?」と聞くと
 「バッチリでしたよ!問題ありません」と答えてくれた。
でも私には確信はない。本番終了後にビデオを見て、やっと安心した。自分でも驚くほど、寸分の狂いもなく演奏を終えていた。経験を生かせたと実感できた瞬間でもある。

この仕事は後々大きな意味を持つことになる。ゲンダイオンガクとは違う音楽を作曲することの楽しさや厳しさを、あらためて感じたし、チームで一つのプロジェクトに取り組む喜びを実感したからでもあった。
「惚れなきゃだめだよ」という廣瀬先生の言葉が、理屈ではなく身体の一部として自分のものになり始めているように感じられた。

 雨田光示さんには、その他にもたくさん仕事をご一緒させていただいた。雨田さんが長年主宰してこられたアマダ・ハープ・アンサンブルのための委嘱作品や、編曲の依頼をいくつもいただいた。
 そんな雨田さんだが、20091月に亡くなられた。その前年、私の携帯に電話をかけてこられた。
 「京都に来たら、連絡して下さい。一緒にお昼ご飯でも食べよう。」
 そう言って下さったことがその時含め2度あった。
忙しさにかまけて、なかなか会いに行けなかったのが悔やまれる。

余談だが雨田光示さんは長男。次男はネコの絵でも有名なチェロ奏者・雨田光弘さん(元日本フィルハーモニー交響楽団首席チェロ奏者)。そしてお父様は彫刻家(国際的に活躍され「日本のロダン」と呼ばれていたらしい)、画家、そしてハープ奏者(マルセル・トゥルニェの弟子)、はたまた京極流筝曲宗家二世というとてつもない才能の持ち主・雨田光平さん。ご子息の一人は私の大学時代の後輩で、チェロ奏者として活躍されている。

最後に是非お伝えしたいことがある。ご存じの方もたくさんいらっしゃると思うが、福井には盛んな産業のひとつに繊維産業がある。戦時中「落下傘」の布を作っていたためか、戦争末期昭和207月にはB29爆撃機127機による集中的な福井大空襲があり、太平洋側の主要都市同様、壊滅的なダメージを受ける。そして戦後の復興が始まって間もない昭和23年には福井大震災に見舞われ、またしても多くの犠牲者を出すことになる。ただその両方ともが現在ではあまり語られることも無く、知る人も少ないことは残念なことだと思っている。もしご興味があれば、一度下記URLをご覧いただければと思う。

***********************************
バックナンバー 




2014年5月18日日曜日

27<第3章 レクイエムへ至る25年> 母の死

 関西に戻り四年目の秋、母は亡くなった。私が30歳の時だ。 
 脾臓に出来たガンが肝臓に転移していた。私が大学4年の時に母は子宮ガンを患ったが、その転移ではなく原発性だった。
 定期的に検査をしていたにも関わらず、見つからなかったようだ。もともと見つけにくい場所のガンであるうえに、現在ほど治療技術も進歩していなかった。気づいた時には既に手の施しようがない状態で、余命は半年だった。
 
 抗ガン剤は投与されたが、言ってみればそれは気休めにほかならない。手術で治る見込みもなく、手術をしたとしても体力の消耗から余命を縮めてしまう可能性が高いので、延命治療に重点がおかれた。入院して最初の頃はまだ元気も多少あったが、次第に起き上がることも難しくなっていく。
そんなある日、大きくなったガンが腸を圧迫して腸閉塞をおこしかけたのだ。緊急手術で一命をとりとめたが、ガンには手をつけられない。
 痛み止めのモルヒネの量も日増しに増えていく。そのために意識が朦朧としている時間が長くなり、病室にいても会話すらあまりできない。
 快復する見込みがゼロという中で、病床の母を見ながら「いのち」の終焉に向き合う「覚悟」をするための、私に与えられた時間的な猶予だったようにも思う。
 
 父と共に精一杯看病をしたが、出来ることは殆ど何もない。時間が許す限りそばにいて、時々水を口に含ませたり、たまにうつろな状態で話す言葉に応対するぐらいだ。

 「家に帰りたい」と一度だけ言った。
 亡くなる数日前には、
 「お前とは短い年月しか一緒にいてやれなかったね。もう何もしてやれないね。」と、最後の力を振り絞るように言った。母の無念さを思うと胸がつまった。でも母の前で泣くわけにもいかなかった。

 その数日後、入院からほぼ半年経った日のこと、担当の医師が父と私に意志を確認した。病室の外で、苦渋に満ちた表情とともに小声で話し始める。
 「いつ亡くなられてもおかしくない状態です。このまま延命措置を続けることも可能ですが、自然な形で天寿を全うしていただく選択肢もあります。どうするかは、ご家族の方がお決めになることです。お考えいただけますか?」

 無為に余命を延ばしても、母が快復するわけではない。痛みと闘う時間を延ばすだけにすぎない。覚悟するための時間は母から与えてもらった。
 いよいよ決断する時が来ていた。

 父は私を見た。私は、父の目を見てゆっくりうなずいた。
 少し間をおいて父は一言、医師に告げた。
 「延命措置を終えて下さい…」
 医師は
 「解りました。では明日。」と言った。

 病室に戻ってしばらく無言の時間が流れた。父は父なりに、私は私なりに最後の心の整理をしていたのだ。そんな沈黙が突然破られる。
 母の状態が急変し始めたのだ。まるで母も最後の覚悟をしているかのようだった。そしてすべての思いを飲み込むようなしぐさをすると、母は息を引き取った。
 母も自分の意志で最後の決断をしたかったのだろう。そう思った。まるで医師と私たちが病室の外でしていた会話を聞いていたかのようだった。

 自宅に母を連れて戻り、仮通夜を営んだ。眠れるはずもないが、交替で仮眠しようということで横になってうとうとしていた時、ゴーッという大きな音に包まれた。それはゆっくりと遠ざかっていく。聞いたことのない不思議な音だった。目を閉じたまま、その音が消えるまで聞いていた。なぜか私には母が旅立つ音のように思えたことを今でも鮮明に覚えている。目を開けてはいけないような気がしたのだ。

 告別式では涙が止まらなかった。祖父の死は経験していたが、自分を生んだ「母」という存在を亡くした悲しみは、想像をはるかに越えていた。嗚咽した。
 苦労した母の人生を思うと、とめどなく涙があふれ出た。

 入院後、私たちに残された時間は少なかったが、一度だけ帰宅を許されたことがある。久しぶりに自宅に戻った母は嬉しそうだった。そして食事を一緒にできることを喜んでいた。それが母を囲んだ最後の食事となることは、わかっていた。
 ただ、そんな時間が持てたことがせめてもの救いだった。

 母の死から数ヶ月後、関西学生マンドリン連盟という団体から、演奏会のための楽曲を委嘱される。母の死後、初めて作曲する作品となった。

 困難を乗り越え、未来に向かって前進していく若者の姿をイメージし、大らかで伸びやかな感性、清々しさと優しさ、柔軟な知性・・・、そんな思いを悲しみのどん底で曲に託した。「プレクトラム・セレナード」という楽曲だ。プレクトラムはギターやマンドリンなど、弦をつま弾く楽器で使う爪、ピックと同じ意味の言葉だ。
 心の中で、亡くなった母に捧げた曲でもある。もちろん難解な現代音楽ではなく、調性があるメロディーもわかりやすい作品だ。
 

この曲は19876月の初演から数えて11年後にようやく出版されたが、作曲してから25年以上経た今でも、全国のどこかで演奏されている。

2014年5月6日火曜日

26<第3章 レクイエムへ至る25年> ゲンダイオンガクな日々

関西に再び戻ってからの私は、演奏家の仲間たちと様々なコンサートを行い、どんどん作品の発表も行うという「ゲンダイオンガクな日々」が日常となっていく。

 いわゆる何をもって「現代音楽」と呼ぶのかを定義づけることは難しい。表現の手法が先鋭かつ前衛的で、抽象的なイメージがどうしても付きまとうが、必ずしもそのような音楽だけが現代音楽ではない。ただ一般の多くの人たちからすれば、現代音楽は「調性」感が無いものが多く旋律も認識しにくいため、どうしても難解で心地よさとは対極にあるものという印象が強いかもしれない。
 また現代音楽がアカデミックな権威と結びつき、形骸化してしまうとそれはもはや先鋭的でも前衛的でもなく、日常や知的好奇心から遊離したものになるように私は常々思っている。現代音楽と呼ばれる音楽の中にも名曲は数多くあり、駄作もまた然り。
 
裏返せば、どうやって自分の表現したい音楽を、独自の手法で表現するかという課題を担いながら、世の作曲家はもがき苦しみながら切磋琢磨しているといっても過言ではない。
作曲家の卵としてのスタートをしてからしばらくは、私もやはりそんな自分なりの「ゲンダイオンガク」を探して、もがきながらたくさん作曲していた。

同世代の演奏家たちとの交流の中で、作品を委嘱され作曲する機会も度々あった。演奏家がリサイタルを行うのと同じように、すべて自分がお金を負担する形で、自分の作品だけのコンサートも京都のホールで2度開催したり、コンサートの企画を頼まれることも多くなっていく。
まずは何でもチャレンジして、自分で開拓しなければ始まらない。どんなジャンルの音楽を作曲するにせよ、自分の新しい作品を書いていくために、積極的に活動していた。

京都では祇園祭の時期に合わせて、身近でクラシック音楽を楽しめるようなことができないかと相談を受け、「祇園祭クラシックライブ」というコンサートを3年ほど続けた。コンサートホールではない場所で、クラシック音楽を気軽に聴ける機会は、当時まだそれほどなかった。喫茶店やレストラン、お寺などで、ただ単にクラシック音楽を演奏して聴いてもらうのではなく、それぞれにテーマを決めてプログラム構成やコンサートそのものの在り方を工夫していく。
例えばリーズナブルな値段で美味しいフレンチを提供していたレストランでは、モーツァルトの音楽を聴かせて醸造したその名も「モーツァルト」という日本酒とともに、それに合う創作フレンチを召し上がっていただきながら、モーツァルトの曲を中心に軽い感じに編曲したクラシック音楽を聴いてもらう。そんな企画などもした。

その他、演劇や一人語りなどのジャンルで活動している人たちとも仕事をしたり、
ひとつの型にはまらない活動を意図的に行っていた。自分の音楽が果たせる役割を広げていきたいという意欲と、他ジャンルとのコラボレーションへの好奇心を絶えず持ち続けることを、大切にしていた。
「ゲンダイオンガク」の中だけで音楽を考えるのではなく、何か自分らしい音楽との関わり方が出来ないものかと悶々としていたように思う。
自分とは何か?それを知ることが一番の課題でもあり、それは延々現在まで続いているものとも言える。

それ以外に自宅では作曲科を受験する生徒を教えたり、他の音楽教室でも理論やピアノ、聴音やソルフェージュといったレッスンも日常的に行っていた。

 ただカルチャースクールでの嘱託社員生活は、2年間で終わりを告げる。きっかけは2年目に社内の組織替えがあり、「指導室」という新しいセクションに配属になり、室長という責任者になったことだ。
「指導室」というのは、講座の指導内容や講師を管理するセクションだった。その立場で仕事をすることは、私にとってだんだん辛い状況を産み出す結果につながる。
なぜなら講座の指導内容の管理は、企画開発の仕事とも共通する部分があるが、音楽活動を一緒にやっている人たち(演奏家)を管理するという立場は、創作活動とどうしても相容れない部分が出てくる。
経営者側に立たないといけない。それは当時の私にとって出来ないことでもあった。作曲家として活動を続けていく以上、演奏家は大切なパートナーだ。演奏のギャラを払うことがあったとしても、それは雇用関係とは意味合いが違う。会社という組織の中で、経営者側の人間として自分の居場所を作ってしまっては本末転倒になる。
組織の中で仕事が出来ないということではなく、音楽を産み出す仲間たちを管理する立場にはなれないということだった。そのために関西に戻ったわけではない。

いつクビを切られるかはわからないが、上司には経営者側の人間としてではなく、一人の講師としてカルチャースクールに関わることを選びたいと申し出た。そして嘱託契約が切れる三月末で雇用形態を変えてもらうことになった。

会社という組織の中に居続けていたら、おそらく今の僕は存在しない。
それ以来現在までずっとフリーランスの立場で、様々な組織やジャンルの人たちとも一緒に、仕事をしている。 

***********
前回は 25<第3章 レクイエムへ至る25年> 着ぐるみは人格を変える?


2014年4月28日月曜日

25<第3章 レクイエムへ至る25年> 着ぐるみは人格を変える?

大学卒業後、3年間の東京での修行時代を経て27歳の時に関西に戻った私は、それから25年という時間をかけてレクイエム・プロジェクトに導かれていく事になる。

 関西に戻り、カルチャースクールでの仕事を始めて、それまでやったことが無いような体験もずいぶんした。子供向けの教室では一般的にいわれる「販促イベント」が大切で、体験教室などを行う。私が勤めていたスクールは京都市内に数カ所拠点があり、そのなかにはショッピングセンター内に開設された教室あった。
 家族連れが多く集まる場所でもあり、集客にはうってつけだ。イベントに参加してもらうためには、まず子供たちを呼び込む必要がある。その常套手段は“着ぐるみ”だ。

 ゆるキャラなどの言葉すら当然無く、くまモンも存在しない時代。しかしいつの世も着ぐるみは子どもたちに人気だ。
 夏に入った時期に行ったイベントで、私は生まれて始めて着ぐるみを着た。
 可愛いクマの着ぐるみだったと思うが、それを着て教室前のスペースで手を振りながら音楽に合わせて踊りながら子供たちに愛嬌を振りまく。その横で女性社員がチラシを配ってイベントへの参加を呼びかける仕組みだ。
 「わぁ、可愛い」と近寄ってくる女の子もいれば、握手をしにくる子供もいる。ひどいのは、人間が入っていることを知っている小学生ぐらいの男の子だ。着ぐるみを叩きにくるから要注意だった。

 着ぐるみを着るまでは恥ずかしさがあったのだが、着てしまえばその中から見える風景はまるで別世界。恥ずかしいどころか、逆に「可愛いクマになりきってやろう」と考え始めるから不思議だ。自分の心理的な変化に驚いたほどだ。人格が変わったのか?と思えるほどだった。
 ただ、着ぐるみの中はとても暑い。夏場は少し動いただけでも汗が噴き出す。集まってきた子供たちと一緒に、音楽に合わせて踊ったり飛んだり跳ねたり…。楽しい反面、それは灼熱地獄との闘いだ。頭までクラクラしてくる。でもなぜか快感でもあった。
 まったく違う人格の私がそこにいた。なんでも経験してやろうと思って引き受けた役割だったが、自分が知らない自分に気づいたのも事実だ。
 意外に知らない自分の内面を引き出す楽しさを実感したのも、この時が初めてだった。

 その他にも企画開発室長として、様々な仕事に取り組んだ。
 幼児を対象にした総合的な教育プログラムの開発では、それまで殆ど知らなかった世界に足を踏み入れることになる。たくさん絵本も読んだ。新しい子供のうたやリズム遊びなどもいろいろ知る。
 スタッフは美術、英語、幼児教育、音楽などを大学で専攻した若い女性が中心。ミーティングのなかで彼女たちの意見にも耳を傾け、カリキュラムの骨組みをまとめていく。それまで学んだ音楽だけでは経験できなかったことが、後々きっと役立つだろうという予感もしていた。

 幼児もたくさん指導した。ヤマハの音楽教室などで講師をしている人たちにも、より専門的な理論も教えた。指導者の養成もした。
 幼児から大人、そして指導者までをも含めた幅広い人たちに、音楽を接点に教える機会を持つことは、私にとっては多くのことを逆に教えてもらう時間でもあった。
 
 その他、コンサートもたくさん企画していくことになる。カルチャースクールでは、クラシック音楽の様々な楽器の講座があった。ところが私が嘱託社員になるまでは、講師同士が交流できる機会もあまりなかったようで、ただ楽器のレッスンをする場所という何とももったいない状態だった。
 企画開発室で仕事をするようになってまだ間もない頃、担当の部長にひとつの提案をした。
 「講師間の交流も兼ねて、定期的に講師を中心にしたコンサートを企画していきませんか?生徒募集につなげる販促イベントとしての意味合いもあるし、他の音楽教室には真似できないものが必ずできると思います。」
 部長も興味を示してくれた。そしてさっそく第一回のコンサートを企画することになる。

 最初のコンサートのテーマは「東西の響きと出会い」。
 日本と西洋の楽器によるコンサートだ。縦に構える木製の楽器“尺八”と“リコーダー”、弦をはじいて音を出す“琴”と“アイリッシュ・ハープ”という四種類の楽器による一風変わったコンサートでもある。
 それぞれのソロ曲、尺八と琴、リコーダーとアイリッシュ・ハープの二重奏、そして全員がアンサンブルをする新曲という構成で企画し、新曲は私が作曲するという内容だ。出演を依頼する予定の講師に趣旨を説明し、協力を求めていく。講師陣も運営サイドからの初めての企画提案に驚きつつも興味を示してくれ、是非成功させようと乗り気になってくれた。

 新曲はあまり難解な現代音楽にならないようにしたかった。何が何でも自分の価値観だけで作品を作ろうとは思わなかったのだ。
理由は3つ。1つは私の音楽世界を聴いてもらうための演奏会ではないこと。2つ目は講師陣が現代音楽を演奏する機会が少なかったこと。もう一つは、予想される来場者も同様に現代音楽を殆ど聴いた経験がない人たちであることだ。
 東洋と西洋の楽器を一つのコンサートで聴けることに興味を持ってもらいたかったし、それぞれの楽器が持つ伝統やその楽器のために書かれた古典的な楽曲をとおして、音楽の豊かさと面白さを少しでも伝えたかった。

 妥協するわけでは毛頭無い。ただ、与えられた条件や制約がある中で自分ができる表現方法を見つけることも、駆け出しの作曲家としてスタートを切るにあたり、大切にしたいとも思っていた。そのスタンスは今も変わっていない部分があるし、東京で活動するようになった後も、プロデュースする立場の仕事に役立つことになっていく。

初めての企画コンサートでの新曲は、東西4つの楽器が対話し時には葛藤しながらも、最後にはそれぞれが融合していく音楽を目指した。異なる風土や歴史を持つ楽器が、柔らかな風のように寄り添い、時には激しく渦巻く作品。
曲名は「風歴(ふうれき)」。関西に戻って初めて作曲した楽曲だ。そして「風」をテーマにした楽曲は、その後何曲か作曲することになり、新たな出会いへとつながるきっかけともなっていく。


 コンサートは思った以上に好評で、シリーズとして約1年の間に5回ほど企画し、2年ほど続けることになる。フルートの講師陣だけによるものや、母校・京都芸大の後輩たちの作品を演奏するものなど、工夫しながら行った。そんな活動をきっかけに、演奏家の人たちとの交流が始まり、広がっていくことになる。

*****************
過去3話は

2014年4月3日木曜日

24<第2章 遠回りのはじまり> まわれ右

廣瀬先生は「まず10年間、音楽的な部分も含めて自分の足もとをしっかり見つめなさい。10年続ければ何かが見えるよ。」と私に常々語っておられた。
文化庁の芸術家国内研修員として始まった最初の東京生活も3年目を迎えた秋、私は次のステップをどう踏み出すかを考えていた。
いつまでも先生のお世話になっているわけにもいかない。自分にとって「足もとを見つめ、作曲家としてのスタートを切る」ことは、まず関西に戻って経済的にもきちんと自立し、自分の道を自分で切り拓くことでもあった。
 東京にそのまま残ることも考えたが、廣瀬先生に甘えてしまいそうで嫌だった。結論として関西に戻る選択をする。

 まさしく“まわれ右”だ。
 これからという時に、東京まで行っていながら再び関西に戻る選択。
不器用な生き方かもわからないが、その時は東京にこだわる理由は無かった。それよりも、当時はまだ関西(特に京都)で若手の地元作曲家が精力的に活動することが少なかったので、廣瀬門下の最初の弟子のひとりとして頑張ろうと考えていたのだ。

関西に戻るには仕事を見つけないといけない。
そんな時、子どもの時に使わなくなった足踏みオルガンを下さった方のご主人から、ある情報が入った。当時その方は京都の某女子大学の教授をされていて、その大学で教育学部の常勤講師(音楽)を公募しているというものだった。
 応募するためには、推薦文を書いて下さる推薦者が3人必要となる。もちろん廣瀬先生にまずお願いした。残りのお2人は、廣瀬先生がお願いして下さり、指揮者の山田一雄さん、そして作曲家の別宮貞雄さんという日本を代表する錚々たる方々が書いて下さった。お2人にはご挨拶とお願いをするため、時間を取っていただき、直接お目にかかってお話をさせていただいたが、緊張していたためか、どんな話をさせていただいたのか何も覚えていない。
結果的には、公募とはいうものの内定していた方がいらっしゃったようで、大学の講師として採用はされなかった。ただ山田一雄さん、別宮貞雄さんというお2人にお目にかかり、話をさせていただき、推薦文を書いていただいたことは、当時の私としてはあり得ないほど光栄なことだった。

さあそうなると、仕事を早く見つけないといけない。
仕事といっても就職するわけではない。音楽大学卒業生の多くは、自分の専攻の楽器などを教えながら活動するスタイルが一般的だったので、音楽教室で講師を募集しているところを探すことから始めた。さしずめ私の場合は、音楽理論やピアノなどを教えられる場所が必要だった。
後輩からの情報で、地元の楽器店が京都新聞社と提携してオープンさせたカルチャースクールがあることを知る。音楽の講座もクラシックからポピュラー、そしてジャズや邦楽まであり幅広い。それだけではなく、エアロビクス、ジャズダンスそして日本舞踊など、かなりの講座数を有していた。3年間離れただけで、ずいぶん京都も変化していた。

そのカルチャースクールの実質的な責任者と面談し、講師として雇ってもらえないかと相談すると、
「講師もしながら、企画開発室という自分が部長を務める事業部の中のセクションに入らないか」と誘われた。新しい講座の開発、幼児を対象とした総合的な教育プログラムなどを考え、実践していく仕事だった。
興味が湧いたのと同時に、いろいろな経験も積めるような気がした。ひとつだけ自分につとまるかどうか疑問だったのは、嘱託社員にならないといけないことだった。
つまり講師でもありながら、楽器店の社員という立場になる。迷う部分もあったが、まずは経験してみようと決心した。

廣瀬先生にそのことを伝え、大学3年生から6年間にわたるご指導に感謝した。東京では多くの貴重な経験とともに、オーケストラのいわゆる現代作品を2曲作曲した。
そして27歳となる年の4月。私は東京で活動するのではなく関西に戻るという選択をして、いよいよ本当の意味で作曲家としてやっていけるかどうか試されるステージに進んだ。

その選択に関して、廣瀬先生が本当はどう感じられたのかはわからない。当時を知る友人から聞いた話では、「せっかく東京に連れて行っていろんな経験をさせたのに、もったいない」と残念がられていたと、ずいぶん後になってから聞いたことがある。
私にとっては関西に戻って頑張ることは、先生の教えを守って実践するためだと思っていたのだが…。

不器用な選択だったかもしれない。真っ正直すぎたかもしれない。先生の立場で考えれば、私の選択は疑問だったのかもしれない。

かなりの遠回りをしたことは間違いない。
でも気がつけば、この歳になってもいつも遠回りをしている自分が、今もいる。