2014年3月29日土曜日

23<第2章 遠回りのはじまり> 惚れなきゃダメなんだよ!

 東京では勉強を続けながら、貴重な経験を積むことになる。
 廣瀬先生は、現代音楽の作曲以外に合唱曲やフルート・オーケストラなどの演奏会用の作品のほか、テレビドラマや映画などの音楽も多数手がけ、私が研修員としてお世話になっていた時期が一番多忙な時期でもあった。
作品が産み出される過程や瞬間を目の当たりにする経験は、通常なかなか出来ない。そんな素晴らしい瞬間に立ち会うこともでき、ドラマなどの音楽レコーディングの現場にもアシスタントとして立ち会うことが許され、たくさんの経験の場を与えていただいた。

レコーディングではよく指揮を任されたのだが、最初の頃は不慣れなためスタジオ・ミュージシャンに迷惑をかけることもしばしば。
「そんな指揮じゃ弾けないよ」
「また吹くのかよ!」などと、いじめられることもあったが、そんな事よりも貴重な経験ができることが楽しく、充実した時間でもあった。

今から30年ほど前のレコーディング現場(特にドラマの世界)では、楽曲のテンポをコンピューターや“ドンカマ”と呼ばれる機械で管理することはほとんど無かった。アナログのストップウォッチを見ながら音楽を録音していく。あらかじめ楽譜の数小節ごとに秒数のラップタイムを記入しておき、指定されたテンポで指揮を始め、決められた時間に収まるように微調整しながら音楽を録音していくのだ。

全体が1分や2分程度の長さの楽曲ならまだよいが、3分を超えるものになるとわずかの誤差が積み重なって、規定の長さよりも3秒オーバーとか、2秒足りないといった事態が時々起こる。音楽の最後の余韻が1秒強ぐらいのオーバーならまだ何とかなるのだが、2秒を超える誤差になると、もう一度録音するハメになるのだ。
指揮者に問題があってもう一度演奏しなければならなくなると、当然ミュージシャンは「また吹くのかよ!」となるだ。また限られた時間にたくさんの楽曲を録音しなければいけないので、慣れない頃は必死の状態が続いた。
今考えると「スタジオ・ミュージシャンのみなさん本当にゴメンなさい!」という状態だったと思う。大変だったが、貴重な経験はその後の仕事に大いに役立ったことは言うまでもない。

またこんなことがあった。
東京生活1年目のある時、初めてNHKテレビの番組音楽を担当させてもらうことになった。もちろんギャラをいただいて作曲する仕事としても初めてで、言ってみればデビューともいえる。
それは“ことりたちの四季”という番組で、季節の移り変わりの中で生きていく小鳥たちの様子を伝える子供向けの内容だった。数日間懸命にピアノに向かうのだが、思うように曲が書けない。いくら頑張っても納得できる形にならない。そんなふがいなさを感じながら悶々としていた。
正確に言えば曲はいくらでも書けるのだが、何か違う気がしていつまでたっても作業が終わらないのだ。もちろん徹夜、青息吐息の状態が延々と続く。
録音時刻がどんどん近づき夜も明けてきた時には、もう顔面蒼白。何とか書き終えてスタジオに入った。録音は無事終了したが、自分が情けなかったし悔しくもあった。

学生時代に学んだことが、そのままでは何も社会で通用しないことを思い知った。
音楽が必要とされる現場で、作品を完成させることの難しさを身をもって体験した最初の出来事。とても大きな意味を持つ日となる。
実は私にとっては録音が終わった後に、廣瀬先生と交わした会話が重要な意味を持っているのだ。

当日は私の録音の他に、廣瀬先生も別の録音があったため、一緒にNHKのスタジオにいた。2人分の録音がすべて終わり、帰りのタクシーの中で先生からこう質問された。
「初めて仕事として作曲してみて、どうだった?」
私は、頑張っても思うように作曲できなかったこと、大学で学んだ技術的な部分だけでは社会に何も通用しないと痛感したことなど正直に告白した。
話を聞き終えると同時に、先生は優しい表情を浮かべて言った。

「惚れなきゃダメなんだよ!」

 その言葉はとても深く、重く、また大きな課題として私の心に響いた。
 自分なりにその言葉の意味を少し理解できるようになれたと実感し、実践できるようになるまでに、それから十年近い時間が必要だった。
 
五線紙の向こう側にいるスタッフ、演奏家、そして音楽を必要としている対象、それを見たり聴いたりする人たちなどすべてを生かすこと。そして表現者として心底愛情を注ぐことの大切さと、社会との関わり、人と人との関わりの中でこそ音楽が生まれてくることを教えて下さった言葉だと思っている。
すべてが自分の作品だ。どんな仕事であれ、自分が関わる意味合いを考え、ひとつひとつを大切にしなければいけないという戒めの言葉でもある。

最近、とある音楽の事件で、ゴーストの先生の素晴らしさを論評する方々のコメントの中に、いわゆる劇伴といわれるドラマ音楽や様々な商業音楽、調性によって書かれた曲などは、クラシックの訓練をきちんと受けた人間であれば、いとも簡単で余技で出来ることのように言い放つ方が少なくないが、はたして本当にそうなのだろうか。
少なくとも、廣瀬先生は余技として商業音楽に関わっていなかったし、そのような姿勢で上から目線で仕事をすることを、極端に嫌われていたように思う。もちろんその先生の薫陶を受け、その現場をつぶさに見てきた私としても、同じ感覚でいる。
学生の頃、「私プロレスの味方です」という内容を私に話して下さった時、ジャンルに一流二流があるのではなく、そのジャンルの中で一流二流があるんだよとよく話してくださっていた。

「惚れなきゃダメなんだよ!」
平成20年に廣瀬先生は亡くなられたが、今でもこの言葉は忘れられない。
そして今でも時々自分に問いかけている。

「ちゃんと惚れて、仕事をしているか?」と。




2014年3月28日金曜日

22<第2章 遠回りのはじまり> 基本をイチからやり直し

 私が大学3年になる時、作曲専攻の主任教授が定年退官となり、その当時注目されていた作曲家が新しく教授として赴任された。
廣瀬量平先生だ。
現代音楽の専門雑誌で名前は知っていたが、まさか自分たちの教授になるとは夢にも思っていなかったので正直驚いた。その廣瀬先生との出会いが、現在の私を形づくる大きなきっかけとなり、多大な影響を受けることになっていく。

最初に課題として与えられたテーマは「基礎を徹底的にやる」ということだった。
受験勉強から大学2年までで習得していたはずの基本中の基本すべてを、さらに高度な課題を通して、すべてイチからやり直すのだ。それは「芸術家であるまえに職人であれ」という先生の言葉にも象徴されていた。
私はなぜかその「やり直し」が気に入り、新たな教育システムにどっぷり浸ることを選んだ。教授が替わった直後でもあり、どの程度の意識で取り組むかは学生ひとりひとりの自覚に任されていたように思う。

「和声法」「対位法」といった基礎の他に、楽曲分析も授業の大切な要素だった。音の長さ、高さ、音域、モチーフがどう展開されているか、和音、強弱、音色など、様々な音楽の構成要素を客観的に分析し、音楽の構成とはどういうものかを、徹底的に叩き込まれた。
すべてが新鮮だった。専門的に作曲を学ぶことの面白さにようやく気づいたのだ。

基礎という大切な土台を構築していくことと並行して、自分の足もとをきちんと見つめること、社会を見つめること、そして自分が表現するべきことは何なのかを考えることの大切さを学んだ。     
日常何気なく使っている言葉に対しても、自分自身の中で本当に根拠があるのか、また本当に身についた言葉として話したり書いたりしているかどうかを、非常にシビアに判断される。
たとえば映画を見た感想を、何気なく「感動しました」「良かったです」と言ったとする。先生の口からは必ず間髪入れずに「どういうところに感動した?」「どういうところが良いと思った?」という質問が飛び出す。
そんな会話を幾度となく繰り返しながら、漠然と「感動した」「良かった」ではなく、表現者として自分のアンテナがどういうものに対して、どう反応したのかをきちんと把握することの大切さを学んでいった。
基礎をやり直したことは、自分自身にとって過信ではなく、とても大きな自信になった。

そして大学4年も中盤にさしかかった頃、ごく自然に「廣瀬先生のもとで作曲の勉強をもう一年やりたい」と思うようになっていく。大学に残る方法は無いものかと考えていた私は、妙案を思いついた。
コントラバスとオーケストラにハマっていた私は、実は毎年出席日数が足りずに「ドイツ語」の単位を落とし続けていた。つまり試験を受ける資格がなかったわけだ。卒業するなら単位を取得しなければならない。
「そうだ。これまで同様、単位を落とせばよいのだ」と気がついたのは、当然といえば当然だった。

ただひとつだけ大きな問題があった。
作曲の単位をすべて取ってしまうと、肝心の専攻の授業が受けられない。
「もう1年、先生のもとで勉強させて下さい」と頼み込み、「作品発表」という単位をあえて落とす、つまり発表しないことを黙認してもらったのだ。
そして“確信犯”として、大学5年生を迎えることになる。
今だからこそ言える留年の秘密だ。もしその当時から母校に大学院が設置されていれば、また違った展開になっていたかもしれないが…。

5年生”はひたすら作曲三昧。あっという間に学生生活も終盤に入り、またしても私の心に変なささやきが聞こえ始める。
「卒業してどうするの?もっと作曲にハマれば?」
音大生の場合、学校の先生になるかオーケストラに入団する以外は、卒業したら就職するという世間一般の図式に当てはまらない人間が多い。その当時はそうだった。私もご他聞にもれず、何も仕事に結びつく活動はしていなかった。

あれこれ考えた私は、先生にこんな相談をした。
「美学を学べる大学院を受けてみようと思うのですが、どうしたらよいでしょうか」
世間知らずもはなはだしいとは、この事だ。大学院を受ける何の勉強もしていないのに、受けてみたいとは…。
おそらく先生はあきれていたと思うのだが、代案を提示してくれた。
「文化庁の芸術家研修員制度で、国内研修員というものがあって、ちょうど今その選考のための募集を行っているから、書類を出しなさい」
廣瀬先生の取り計らいもきっとあったと思う。音楽や美術、舞踊やバレエなど様々な分野の応募者の中から、運よくその国内研修員に選ばれることになる。

1980年、初めての東京生活が始まった。
研修先は「日本現代音楽協会」という団体で、担当は廣瀬先生だ。
つまり私にとっては、大学院に行くようなものだった。

弟子の数だけ、教育者としての廣瀬先生像があると思う。
徹底した基礎の習得をベースに、ひとりひとりを暖かく見守り、最大限生かすため、自分自身を見つめることを教え、社会を見つめることを教えた先生の熱意は並大抵のものではない。

僧侶の道を外れ、寺子屋のような大学キャンパスで作曲や音楽を基礎から学んだ。コントラバスという楽器の魔力にとりつかれ、オーケストラの経験もした。実は、副科管楽器はオーボエにしたのだが、それにもかなりハマっていた。
遠回りだったかもしれないが、有意義な時間だった。

そして新たに始まる東京での時間。
それは内弟子のような形での音楽修行そのものでもあった。

研修員の期間は1年だが、その期間も含めて丸3年という濃密で凝縮された時間を廣瀬先生の元で過ごすことになる。