2014年1月10日金曜日

09 <第1章 「記憶」のなかの原石> 剣道少年の誕生


「男らしい何か」をやりたい。そう思った私は、珍しく父に相談した。
 父も昔、柔道やサッカーをやっていたので、スポーツを習うことに関して、頭ごなしにノーとは言わないような気がしたからだ。
 
 父も男親として相談されることが嬉しかったのだろう。さっそく一緒に見学に行くことになった。剣道というものを初めて見た。指導者の人たちの凛々しい姿は、子供のチャンバラごっことは雲泥の差だ。間合いを取りながら、けっして無駄な動きは無い。その緊張感がたまらなく“おとな”だった。
 「これだ!」と思ったのは、言うまでもない。すぐに入会の手続きを父がしてくれたが、約束がひとつだけあった。それは、ピアノをやめてはいけないということだった。
 「続けられないくらいなら、やるな。中途半端は許さない」というのが父の考えだった。

 父との約束を守りながら、どんどん剣道に夢中になった。
 私の身体に合っていたのかもしれない。剣道を始めてからは、自分でもわかるほど運動神経が急速に発達した。そうなると上達するスピードも速くなる。
 メキメキ腕を上げた私は、小学校5年生になる頃には、枚方市内はもちろん、北河内という近隣の6つの市を含むエリアで一目置かれる剣道少年になっていた。大会では、何度も優勝した。

 もう病みつきだ。面白くて仕方がない。
 剣道の面白さのひとつは、瞬発力や相手の動き全体を見る力、直感的、瞬間的な判断が勝負に影響することだ。その感覚を養うためには、日頃の練習がやはりものを言う。
剣道の道場に行かない日でも「勝つため」「上達するため」に素振りなどの練習を怠らなかった。
 競争意識、勝つという意識が芽生え、かけっこで5人中5番と言って喜んでいた頃のような“おとぼけ君”とは様子が違っていた。

剣道に熱を上げていた頃、W先生の転居を機に、ピアノの先生が代わることになる。歌のレッスンも自然消滅になった。
新しいピアノの先生は上野の音楽学校(今の東京藝大)のピアノ科出身の先生で、A先生。厳格な先生で、手の形などもずいぶん直されたが、W先生とは違った意味で素晴らしい方だった。

きちんと続けていると、ピアノもそれなりに上達するものだ。でも成長と共に恥ずかしい気持ちはどんどん膨らんでいた。小学校の高学年では、ピアノを習っていることを友だちにはひたすら隠すようになる。
小学校6年生の時は、その恥ずかしさがピークを迎え始めていた。

そんなある日、私がピアノを習っていることがクラス全員に白日の下にさらされる出来事が起こる。開成小学校では、音楽と美術は専門の先生がいたのだが、音楽の授業の時に歌の伴奏する役を、こともあろうに音楽の先生が私に押しつけたのだった。

事前に何の相談もしてくれず、いきなりみんなの前で
「上田くんはピアノが弾けるから、しばらく歌の伴奏をしてもらいます」と告げたのだ。校内の音楽会のためだったのかもしれないが、あまりに突然のことで呆然となった。

ピアノが弾ける女の子はクラスの中に何人もいるのに、なんで僕なの?という気持ちと、せっかく隠していることを何の断わりも無しにクラス全員の前で公言した先生が、子供心に許せなかった。
ある程度ピアノが上達していた私の耳からすると、たしかにその先生はピアノがお世辞にも上手とは言えなかった。それにしてもひどいやり方だと思った。いきなり土足で僕の心の中に入ってきたように感じたのだ。

しぶしぶ伴奏はしたが、音楽の授業はそれから大嫌いになった。
ピアノまで嫌いになったわけではなかったが、気持ちはどんどん剣道の方に向いていく。

ある時、ピアノのレッスンに行くと先生から
「専門的にピアノをやってみる?それなら別の先生を紹介しますよ」と言われたようだが、私にそのつもりはなく、両親も音楽を仕事にさせるつもりは毛頭なかった。
ピアノは引き続きA先生に教えていただきながら、気持ちは、ひたすら剣道に励む毎日を送っていくことになる。

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