2014年1月2日木曜日

02 <第1章 「記憶」のなかの原石> 里山とロバート・ケネディ


そんな大人の複雑さに翻弄されながらも、私は私で香里団地での生活を満喫していた。
我が家の棟があった一帯は里山に隣接していたので、香里団地の中でもとりわけ自然が豊かだったからだ。

春が近づいてくると草木が芽吹きはじめ、様々な生き物が活動を始める。
それにつられるように、私は昆虫や魚、草花などの本格的な捕獲採集活動に入っていくのだった。
田んぼや畑の横を流れる小川や水路では魚やメダカが泳ぎ、ドジョウも盛んに水面に上ったり泥の中にもぐったりする。田んぼの水たまりや小さな池には、蛙の卵やオタマジャクシ、アメンボやタガメなど水生の生き物、そしてアメリカザリガニなど。
毎日のように多くの生き物を獲っては家に持ち帰り、育てたり観察したり、時には無駄死にさせたりしていた。

もちろん花の開花とともに蝶もたくさん飛び交う。
アゲハチョウやモンシロチョウなどを網で追いかけることはもちろんだが、幼虫を捕まえては、蝶になるまで家でよく育てたものだ。
トンボの数も多く、大型のものから美しい色をした小さなイトトンボまで、多くの種類が生息し、私の好奇心は尽きることがなかった。
ホタル、蝉そして秋の虫たち。数えあげればきりがない。
豊かな自然環境は、里山の恵みそのものだった。

生き物があまりいなくなる冬は、里山が忍者ごっこの格好の舞台になる。
テレビゲームなどに興じる今時の子供たちには、到底想像できないだろう。戦争中の防空壕の跡なども残っていたので、そこは遊び仲間の陣地になった。
ほぼ1年を通して、季節の移ろいとともに私の遊び心を満喫させてくれた里山。
様々な生き物とのふれあいを通して、何よりも「生命」の不思議さや尊さを教えてくれた「教育の場」でもあった。

そんな自然環境とは対照的に、香里団地はやはり先端的な町だった。その中でも特に目新しい施設が大丸ピーコックだ。
香里団地にあった店が第1号店という事を後から知って驚いたが、1階部分が当時の感覚としてはおしゃれなスーパーマーケット、2階部分が食堂になっていた。
その食堂では入り口でトレーを各自受取り、目的の料理を選ぶカウンターまで移動し注文する。料理を受取ったらレジで会計を済ませ、テーブルにトレーを自分で運んで食べるのだ。今ではありふれたシステムだが、昭和30年代としては、画期的な店舗だったことは間違いない。

その大丸ピーコック前の広場は、夏になると盆踊り大会や野外での映画鑑賞会が開かれ、屋台や夜店が軒を連ねる昔ながらの賑やかな場所となった。
モダンな街が一変する、不思議な空間だった。

不思議といえば、必ず思い出すことがある。
ある時、大丸ピーコックから我が家までの帰り道で遭遇した出来事だ。
5歳の時のことだが、母との買い物帰りに突然知らない人に手を引かれ、これまた知らない外国人に抱っこされたのだった。
その様子を何台かのカメラが撮影し、周りが人だかりになっていた。
きっと私は不安げな表情を浮かべていたと思うのだが、母は嬉しそうだったことを覚えている。
突然外国人に抱っこされて写真を撮られた私としては、不思議以外のなにものでもなかった。

その不思議な出来事に登場した外国人は、なんとロバート・ケネディだった。
兄のジョン・F・ケネディ政権で司法長官をしていた時代だと、あとで知った。夫妻で香里団地を視察に来ていたらしい。
その視察を取材していた新聞記者が撮影用に私を抱っこさせたわけだが、はたして記事になったのか、私とロバート・ケネディのツーショットが紙面に掲載されたのかは定かではない。
視察の翌年、ジョン・F・ケネディがダラスで暗殺され、その5年後にはロバート・ケネディも暗殺される。
あの時の写真は、どこにあるのだろうか?残っているなら見てみたい。

豊かな自然と、コンクリートの塊ともいえる人工的な集合住宅群。
外国からも視察に来るような先端的な街づくりと、古くから日本人が慣れ親しんだ生活習慣の共存。
そんな一見矛盾するような要素が渾然一体となった町。
それが私の“ふるさと”であり、感性を育んでくれた場所だ。
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