2014年2月27日木曜日

21<第2章 遠回りのはじまり> 怪我の功名?

 「オーケストラ」の授業を受けられるかどうかの瀬戸際となる、副科コントラバスの学年末試験では、ちょっとしたハプニングがあった。
演奏しようと舞台に横たわっているコントラバスに近寄り、しゃがみこんだ時のこと、一瞬右膝に軽い痛みが走ったのだ。それは楽器底部から突き出ている「エンド・ピン」という、床に固定する金属製の支柱にぶつかった痛みだった。

緊張のあまりか、気にせずにそのまま楽器を手に取り演奏していると、試験官の先生方が何やら笑いを押し殺したような表情で私を見ている。状況がよくわからないまま無事演奏を終えると、先生方からは大きな拍手とともに何と爆笑が…。
ひとりの先生が一言。
「おまえ、ズボンが破れて血が出ているぞ!オーケストラの授業は受けさせてやるから、消毒してこい!」

そう言われてはじめて気がついた。
ぶつかった拍子にズボンが破け、エンド・ピンの先端が膝に刺さって、少しばかり怪我をしていたのだ。そんな状態でもお構いなしに必死で弾いていた私の姿が滑稽でもあったので、先生方は笑いをこらえていたらしい。
練習の成果なのか“怪我の功名?”なのかはわからないが、2年生から念願だったオーケストラの授業を受けられるようになり、私はどんどんコントラバスの魔力にハマっていく。

オーケストラの授業は、あっという間に私を魅了していった。
子供の頃からピアノを習っていたとはいえ、ひとりで孤独に練習するのと、大勢でひとつの音楽を創りあげていくオーケストラとでは、充実感がまったく違っていたからだ。そんなアンサンブルの経験は、以後の私の音楽に大きな影響を与えることになる。
来る日も来る日もコントラバスとオーケストラに没頭する毎日が続く。もちろん本来の作曲専攻の勉強はしていたが、気分はまさに「弦楽専攻」だった。

1年生の頃から親しい友人たちが弦楽専攻生だった事もあり、遊ぶのも呑みにいくのも弦楽器を中心とした連中と一緒。そんな彼らと、月に一度は理由が無くても必ず集まり、酒をヘベレケになるまで呑む「月例会」を結成。みんなお金は無いはずなのに、呑むお金だけはどういうわけかあったようだ。
学園祭になれば弦楽専攻の仲間と「串かつ屋」を開店し、髪の毛や服にまとわりつく油の強烈な匂いに軽い目眩を感じながらも、「へい、らっしゃい!」と威勢よく毎日“串かつ”を揚げていた。
学園祭最終日に行われる「ダンスパーティー」(今となっては古色蒼然とした名前だが)では、学生バンドの一員としてエレキベースを担当し、学生たちの馬鹿騒ぎをサポートしていた。そんな楽しみもコントラバスに出会ったからこそのものだった。

 ところが3年生になったある日、意外なことから自分の気持ちの中に大きな変化が訪れたのだ。
そのきっかけは、コントラバスのレッスンを受けていた先生からの何げない言葉だった。「上田くん、九州交響楽団でコントラバス奏者を募集しているけど、入団試験を受けてみる?」
つまりプロのオーケストラの入団試験を受けないか、というお誘いなのだ。
九州交響楽団は博多にある。母のふるさとだ。興味はとてもあった。
自分で言うのもおこがましいが、「好きこそものの上手なれ」の例えのとおり、急速に上達したのも事実だった。弦楽専攻の人たちからアンサンブルに誘ってもらい、シューベルトのピアノ五重奏曲「鱒」を演奏して学内のコンサートにも出演したり、同学年の弦楽アンサンブルでコントラバスを弾いていていたほどだ。
でも入団試験を受けるだけの実力が本当にあったのかどうか、その先生がどの程度本気だったのかはわからない。

確かに少し迷ったのも事実だ。
ただ、さすがにコントラバスにハマっていた私ですら我にかえり、「自分の専攻はなんだっけ」と改めて考えさせられることになる。

作曲の教授も定年退官で新しい先生に替わっていた。作曲の面白さに改めて気づき、本来の専攻に力を入れなければいけない時期だったのだ。

私はもちろん入団試験を受けなかった。
オーケストラの授業は先生方の理解もあり、4年生の終わりまで続けて受講した。
それは特別な配慮だとも思っていたので、コントラバスのレッスンも受け続け、すでに単位取得済にも関わらず、学年末試験は必ず受けるということを自分の課題にしていた。




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