2014年2月1日土曜日

15 <第2章 遠回りのはじまり> 16歳の決意

10月に入り、ついに私は決意した。
「跡継ぎにはなりません!」
そう宣言した。

両親や祖父母にとっては、それこそ晴天の霹靂だ。
「中学浪人してでも良いから、大阪に戻って高校を受験し直したい」
「自分でもう一度自分の進むべき道を考え直したい」と自分の気持ちをぶつけた。

敷かれたレールを自ら外れる選択をする以上、二度とそのレールの上に戻ることが許されない覚悟はしていた。父の性格からいっても、そんなことを許すはずもなかった。
私の決意を認めるのか、それとも認めないのか…。
大人たちも本当に困ったと思う。無視できる話ではないから、尚更だ。私の「継がない」宣言を聞きつけ、祖父母や父の知人たち数人が、叱責や説得をしに来た。
「考え直しなさい」
「傲慢だ」
「必ず後で後悔するから」
様々な意見が私の頭の上を飛び交っていく。しかし、決心は固く、大人たちも次第に諦めざるを得ないと気付き始める。
そして数週間が過ぎていった。

父も簡単に気持ちの整理がつくはずがない。私や母からすると、父のあまりにも唐突なタイミングでの寺を継ぐ決心。それには、それなりの理由があっただろう。しかしその決心を、息子が覆そうとしていた。
最終的には父も折れ、私は寺を継がないことになった。教師をしている父の意見として中学浪人は勧められないから、編入できる高校を探そうということになる。
中学3年の2学期に降って湧いた跡継ぎ騒動。それから1年間、ずっと心のどこかにくすぶり続けていた私の気持ちが、やっと少し晴れた気がした。
寺に移り住み、高野山高校に通った生活は、夏休みも含めて半年ほどの期間で終わった。振り返ればあまりにも短い期間だが、私にとってはとても長い時間だった。

ただ心のどこかで、自分は「やはり我儘なのだろうか」「勝手すぎるのだろうか」という思いも、絶えずあった。それは、父の決断で私の人生が変わったように、私の決断によって又、父を含む何人かの人生を変えてしまうことでもあったからだ。
逆に言えば、16歳の私の決意は、後継ぎの道を邁進するよりも更に、自分自身に大きな責任を背負う事を意味していたとも言える。

12月に編入試験を受け、高校1年の3学期に編入したのは、大阪城の傍にある追手門学院高校の大手前学舎だ。父の教師仲間でもあり、呑み友だちだったI先生の奥様が、その高校で体育の教師をされていた。事情を汲み取り、尽力して下さった。

香里団地の住み慣れた場所はそのままにしてあったので、母と私が香里団地に住み、父は教師をしていた高校の授業があるときだけ、高野山から帰ってくるという生活スタイルになった。
ところが、いつの頃からか父も高野山へあまり行かなくなっていたのだ。
私が寺を継がない決意をしたことで、父もまた継ぐ意味があまり無くなったのかもしれない。
おそらく父も生き方を変えたのだと思っている。私が変えてしまったとも言えるが…。
父がもし今も元気で生きていたら、酒でも呑みながら本当はどうだったのか、父の本音を聞いてみたい。

寺を継がない決意をしたからこそ、今の自分がある。
でも私が中学3年の時に、父が寺を継ごうと考えなければ、私は今の仕事をしていただろうか?どんな仕事に就き、どんな人生を歩んでいたのだろう…。おそらく音楽とは無縁の仕事をしている可能性が大きい。

寺を継ぐという道を自ら断った私は、それから約40年という自分探しの時間を、遠回りしながら進み始めることになる。
それは「レクイエム・プロジェクト」につながっていく。

何年か糖尿病を患っていた祖父は、私が高校3年の夏休みに亡くなり、Nさんという祖父の弟子が寺を継ぎ住職となった。
私も子供の頃から親しくしてもらっていた人だ。
Nさんとは、その後も親戚のような付き合いをし、お寺にもお世話になっている。

いつも夫婦げんかが絶えなかった両親も、高野山の墓で仲良く眠っている。いやいや、お墓の中でも未だに夫婦げんかをしているかもしれない。


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