2014年2月8日土曜日

18 <第2章 遠回りのはじまり> 父の家出


  受験のためにピアノを教えていただくことになった當麻先生のレッスンは、それまで受けてきたものとはずいぶん違っていた。中学生までのレッスンとは、目的も違っていたから当然だが、新鮮だった。
 
 演奏するときの音色や表現、曲の構成の捉え方など、より深いところまで意識しながら弾かなければダメだということに気づかされたのだ。楽譜に書いてあるとおりに間違わずに弾くだけでは何の意味も無いことを痛感させられ、表現することがどういうことかを、少しずつ学ばせていただいた。演奏や音楽の解釈に関する本も、充分理解できないこともたくさんあったが、相当数読んだ記憶がある。

最初に与えられた曲は、バッハの「二声のインベンション」とカバレフスキーの「ソナチネ」だったと思う。バッハの方は、すでに三声のインベンションも含め小学校から中学の時期に一通りの練習は終わっていたので、復習程度の感覚だった。カバレフスキーは初めてだったが、楽譜から見る限りは、それほど難しくないように思えた。
実際には、そんな甘いレッスンではなかったことは、言うまでもない。新しい発見と、音楽に対する新鮮な驚きの連続は、私の意欲をどんどんかきたてていった。
和声法や作曲といった専門科目のレッスンも、ハイペースかつ着実な習得が絶対条件だったが、何が何でも合格しなければという意識で、ひたすら毎日頑張っていた。

音楽大学を目標にした特殊な受験勉強を始め、季節の移ろいとは無縁のような生活を送って一年。私の大好きな季節になっていた。
中学生まで遊んでいた里山には行かなくなっていたが、家の近くではいつもどおりに秋の虫が鳴き始め、どこからともなく流れてくるキンモクセイの淡い香りが心地よい季節でもある。受験勉強の緊張感から、ほんの一瞬でも解放されるような気持ちになるから不思議だ。

私は秋の空気に子供の頃から思い入れがある。
すこしひんやりし始めた空気から伝わってくる何とも言えない匂いは、大切な記憶でもある。
そんな心地よい季節も冬に少し近づいた頃、我が家にまた騒動が持ちあがった。10月も半ばを過ぎた頃だったように思う。

父が家出をしたのだ。

寺を継がないという私の決断をきっかけに、その頃には父もまた最終的に寺を継がず大阪に戻って教師生活を送っていた。何が母との間であったのかは知らない。母は父が浮気をしていると思い込んでいたので、荒れていた。
私はというと、意外に冷静だった。
真偽の程は今もわからない。
ただ昔から激しい夫婦げんかは日常茶飯事だったし、高野山に家族で移り住む話が持ち上がった頃から、父と母の関係にも何かしら節目が来ていたようにも思う。

父の家出から数週間後に父から連絡があり、父の住む新しく借りた家に来るように言われた。
母は「女の人がいる形跡がないか、ちゃんと見てきて!」と言う。高校生の私にわかるはずもないのだが、母は真剣そのもの。
母の気持ちを考えれば当たり前なのだが、原因がわからない私は「はいはい」と気のない返事をするしかない。家を出発し父のところに向かった。

父の家に着くと、特に気まずそうな様子もなく私を部屋に通した。
何か話を始めるのかと思っていたのだが、父は分厚い手紙を差し出して家に帰ってから読むように言っただけで、しばらく無言の時間が過ぎていく。
近所のグラウンドから聞こえてくる少年野球のかけ声と乾いた打球音が、その時間を長く感じさせた。

結局その日は、父と食事をして戻ることになる。
父からの手紙は、母には内緒にしていた。母は家の中の様子がどうだったか聞きたがる。父に女性がいるとは思えなかったので、
「一人で住んでいると思うよ」としか言いようがなかった。
間が抜けた返事だったと今は思うが、当時は女性の勘の鋭さを知りえる年齢でもなかったから、どうしようもない。
母は苛立ちばかりが募ったことだろう。でも私に出来ることと言えば、「万が一離婚になったらお母さんを選ぶから」と母に伝えてあげるだけで精一杯だった。

父が私に手渡した手紙には、母とのなれそめ、私が生まれる前に一度別れる決心をして大阪駅まで送っていったこと、でもホームで電車を待つ母の後ろ姿を見て、もう一度やり直そうと思ったこと、そして私が生まれたことなどが綴られていた。そして父なりの不満がいくつか書かれていた。
判断は出来なかった。
父と母が決めることだと思っていたし、何か言える立場でもない。何が歯車を狂わせ、どうすれば良いのか高校生の私には皆目見当も付かない。
でもやはり母が可哀想だった。

時間が過ぎていく。
入試はどんどん近づいてくる。
12月に入りクリスマスの頃だろうか。
受験のことで頭がいっぱいだったが、やはり父と母は一緒にいるのが自然だと思った私は、母と話をした。
父を呼び戻してくると提案した。
怒らずに父を迎えて欲しいとも頼んだ。そして母も了解した。

父に連絡を取り、一人で会いに出かけた。
「一緒に住み慣れた香里団地で年を越そう。お正月を迎えよう」と伝えた。母も普段どおり迎えてくれるだろうことも…。

数日後、大晦日に父は戻ってきた。
母は生まれ故郷・博多の味「がめ煮」を作って待っていた。
久しぶりに三人で食卓を囲む。
なんだかとても嬉しい夜だった。
めずらしく母も少しお酒を呑んだ。私も雰囲気で少し呑ませてもらった。

ほんの2ヶ月ほどの「父の家出」は、こうして幕を閉じた。
ふと気がつくと、それ以後の父と母はあまり大きな夫婦げんかをしなくなっていたように思う。

秋の空気は、そんな記憶への扉でもある。



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