2014年2月2日日曜日

16 <第2章 遠回りのはじまり> 運命的な出会い

  ピアノのレッスンは高野山に移り住むタイミングで、いったん止めていたが、楽器は高野山まで運んでいた。たまには何か好きな曲でも弾ける時間があればいいかなと思ったからだ。
月に一度、大阪まで映画を見に行った帰りに、書店でサイモン&ガーファンクルや映画音楽の楽譜集なども買って、たまに寺で弾くのも良い気分転換だった。

それまで、レッスンでは絶対に弾けないジャンルの曲であり、クラシックの楽譜以外は何も持っていなかったので、とても新鮮でクラシック音楽とは別の魅力を感じた。
「やっぱり音楽っていいな」と感じていた。
だからといって、寺を継がない宣言をした後で、音楽の道に進もうとはまったく考えていなかった。

自分で将来に向かう設計図を描かなければいけない私だった。
寺を継がない宣言をしたからには、将来に対してそれなりの方向性を見つけていくのが、私の決断を許した大人への、当然の礼儀だし責任だとも思っていた。ただ方向転換をして間もなかったので、すぐに自分が進むべき道への結論を出せるほど、熟慮もできていなかった。

編入した高校での生活は本当に楽しく、生き生きとしている自分がいた。友だちにも恵まれ、充実していた。
文化祭ではバンドを組み、ローリング・ストーンズやディープ・パープルの曲を演奏し、ミッシェル・ポルナレフの弾き語りもした。音楽部(合唱部のようなもの)に駆り出され、小川未明の創作童話を題材にしたオペレッタ「赤い蝋燭と人魚」で、美しい人魚の娘を買っていく悪役・香具師の役として歌った思い出も忘れられない。

そんな大阪での高校生活が始まってしばらく経ったある日、子供の頃からお世話になり、家族ぐるみでお付き合いしていたSさんに「エレクトーン」を習ってみないかと誘われた。

弦楽器や管楽器、ドラム、ベースなどの音色も出せて、一人でセッションできる画期的な楽器だった。その楽しそうな楽器に、私はとても興味が湧き、先生を紹介していただくことになった。
父は、跡継ぎ騒動への配慮からか反対はせず、無事エレクトーンを習うことになる。

先生は男性で、教育者としても素晴らしく、エレクトーン演奏家としても著名な當麻宗宏先生だった。
音楽という仕事をしている男性と初めて身近に接した私にとって、その「生き方」がとても新鮮に感じられたことを今でも思い出す。
それまでは父も含めて自分の身近にいる男性は、教師か大学教授か僧侶といった職業の人たちばかりだったので、尚更だったのかもしれない。

エレクトーンは鍵盤が上下二段に分かれている。左足は、ベースを担当する足鍵盤を操る。右足は音量のコントロール・ペダルや、リズムボックスのオン・オフなどを担当する。慣れるまでは、足踏みオルガンの比ではない難しさに格闘する毎日だった。
それ以上にジャズやラテンなど、それまで聴くことはあっても演奏する機会がまず無かったジャンルの音楽を演奏するのだから、思うように事は運ばない。リズムに乗るとかグルーブするといった感覚が、その頃は身体の中に全く備わっていない私だったので、ずいぶん先生に迷惑をかけたことだと思う。

ある日レッスンの順番を待っていると、とてつもなく上手な演奏が聞こえてきた。「すごい!」という感想以外の何ものでもない演奏に、どんな生徒なのかと思っていたら、レッスンを終えて部屋から出てきたのは、小学校高学年の少年だった。その少年の演奏を最初に聴いた時は、たしかエマーソン・レイク&パーマーの「展覧会の絵」を完璧なまでに耳コピーしたものだったと思う。
また別の日は違う生徒が素晴らしい演奏をしていた。その彼も私よりもずっと年下だった。
「才能がある人は、山のようにいるんやなぁ」と感心すると同時に、なんて自分は下手なんだろうと少々落ち込んだ。

不器用な私は、テンポは合っていてもリズムになかなか乗れない。それだけでなく、表現することもわかっていなかったし、実につまらない演奏しかできなかった。「つまらない」と、よく當麻先生に指摘された。
練習で克服するという問題ではなく、音楽のとらえ方や感じ方を、理屈ではなく身体が覚えないと、どうしようもなかった。DNAに無い感覚と格闘しているようなものだった。
ピアノはそれなりのレベルで弾けるようにはなっていたが、クラシックと違うジャンルになると、からっきしダメな当時の私だった。おそらく先生も相当手こずられたと思うが、けっして突き放したりはしない。
「こうだよ」と弾いてくれる演奏を聴きながら、頭ではわかっても身体が付いていかない自分がもどかしく、情けなかった。でも不思議に辛くはなかった。

それは私の心が、少しずつ「自由」という扉を開きつつあったからだ。
自分で自分の心を束縛していたものに気づき始めていた。
そして當麻先生との出会いの中で、「音楽を仕事にしたい」と思い始めていた。

芸術的で音楽に囲まれるような環境に育ったわけでもない。
小さい頃から音楽の英才教育を受けて来たわけでもない。
どう考えても自分に才能があるとは思えない。

ただただ、不器用な自分だけど、決められたレールを自分で外れただけの意味を、音楽の仕事を通して見つけたいと思ったのだ。大それた目標だったが、「これしかない」と直感的に感じていた。

高校二年の夏休み直前のことだ。

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