2014年2月7日金曜日

17 <第2章 遠回りのはじまり> 一度だけ与えてもらえた機会

高校2年生の夏休みのある日、少し不機嫌な父から
「進路をどうするんだ」と言われた。
寺を継がない選択をしながら、進路をどうするかまだ決めていない私に業を煮やしていたのだと思う。
反対されることが目に見えていたので、「音楽の道に進みたい」とは父に言えず、母親にまず自分の気持ちを伝えた。驚きながらも、やはり母親は有難い。父に私の気持ちを伝えてくれた。
おそらく夫婦で大喧嘩をしたはずだが、父は「一校のみ一度だけ。一番学費が安い大学を受験しろ」という条件付きで音楽大学の受験を許してくれた。
その時点では、エレクトーンに携わる仕事がしたいという漠然とした目標だった。その仕事をする上でも役立ち、幅広く音楽を学びたい気持ちもあって、「作曲科」を受験することにした。

下宿などの余分な費用もかからず、学費が最も安い音楽大学…。
いろいろ探した結果、京都市立芸術大学音楽学部を受験することに決めた。
その当時の学費は東京藝大よりも安く、京都市内に住民票を置いていれば年額2万4千円!約40年前のこととはいえ、月額に換算すると2千円という信じられない金額だった。京都市外からの学生でも年額3万円だ。国立大学が3万6千円の時代、それよりも安い。
選択肢が一つしかなかったことは、言うまでもない。

どこの音楽系大学でも「作曲科」を受験するためには、「和声法」や「対位法」という理論や「作曲」そのものの実技レッスンをはじめ、ピアノ実技、聴音、初見視唱、コールユーブンゲン、楽典といったいくつかの専門的な勉強が必要になる。つまりその勉強をするためにお金も必要になる。
京都芸大のOBでもあった當麻先生に相談して、作曲の先生を紹介していただき、ピアノのレッスンは當麻先生にお願いすることにした。
作曲の先生はY先生。合唱曲を中心に作曲活動をされ、京都芸大で非常勤講師もなさっていた。

通常はもっと早い時期にそれぞれのレッスンを個別に受けて準備するのが一般的だ。でも私が受験を決めたのは高校2年の夏休みが終わる頃。Y先生からは、
「一浪は覚悟しておいて下さい」
と言われたが、私に与えられたチャンスは父からの条件であるたった「一度」だけ。しかも併願は許されない。
とにかく必死だった。早くから準備をしている人たちの二倍以上のスピードで、受験に必要なレベルまで到達する必要があった。やるしかなかった。
親の負担を考えると、その他はとりあえず自分で勉強し、時々當麻先生にチェックしていただくことにした。

聴音は旋律や和音を決められた回数聴き、その間に書き取る試験だ。
まず問題集を買ってきて、決められたやり方でピアノを弾いて、片っ端からカセットテープに録音していく。自分で弾いて録音するわけだから、たくさん録音しておかないと記憶に残ってしまう。それを避ける工夫が必要だった。
聴音の練習に使う五線紙は市販のものを使うともったいないので、安いわら半紙を買ってきて適度な大きさに切り分け、五線をボールペンで描いた。その作業は、受験で必要のない科目の授業のときに内職としてやっていた。担当の先生にはお見通しだが、大目に見ていてくれた。
数秒間楽譜を見ただけで、すぐに伴奏無しで歌う初見視唱や、音程・リズムの訓練を主な目的とし、楽譜を読む能力を歌いながら養う曲集「コールユーブンゲン」も、しばらくは独習していた。
今は独習用の教材が数多く販売されているが、その頃は数も少なかったし、自分で工夫して独習する方が効果的だとも思っていた。

 「試験に落ちたらどうしよう」という不安よりも、「受からないといけない」プレッシャーは日増しに強くなっていく。でも自分で決めた目標に向かって頑張ることができる喜びは、何ものにも代え難かった。制約があるとはいえ、少なくとも受験勉強をするための費用を出してもらえたことは、心から親に感謝している。
 ネガティブに考えてもしかたがない。「不器用でも工夫して努力すれば何とかなるさ」と、いたってポジティブな私。
それと同時に、万が一受験に失敗した時は、親の反対を押し切ってでも東京に行くこと、アルバイトしながら勉強を続けること、そして目標を東京藝大にすることを密かに決めていた。
 無謀で世間知らずな話だが、本気で考えていたから恐ろしい。


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