2014年3月28日金曜日

22<第2章 遠回りのはじまり> 基本をイチからやり直し

 私が大学3年になる時、作曲専攻の主任教授が定年退官となり、その当時注目されていた作曲家が新しく教授として赴任された。
廣瀬量平先生だ。
現代音楽の専門雑誌で名前は知っていたが、まさか自分たちの教授になるとは夢にも思っていなかったので正直驚いた。その廣瀬先生との出会いが、現在の私を形づくる大きなきっかけとなり、多大な影響を受けることになっていく。

最初に課題として与えられたテーマは「基礎を徹底的にやる」ということだった。
受験勉強から大学2年までで習得していたはずの基本中の基本すべてを、さらに高度な課題を通して、すべてイチからやり直すのだ。それは「芸術家であるまえに職人であれ」という先生の言葉にも象徴されていた。
私はなぜかその「やり直し」が気に入り、新たな教育システムにどっぷり浸ることを選んだ。教授が替わった直後でもあり、どの程度の意識で取り組むかは学生ひとりひとりの自覚に任されていたように思う。

「和声法」「対位法」といった基礎の他に、楽曲分析も授業の大切な要素だった。音の長さ、高さ、音域、モチーフがどう展開されているか、和音、強弱、音色など、様々な音楽の構成要素を客観的に分析し、音楽の構成とはどういうものかを、徹底的に叩き込まれた。
すべてが新鮮だった。専門的に作曲を学ぶことの面白さにようやく気づいたのだ。

基礎という大切な土台を構築していくことと並行して、自分の足もとをきちんと見つめること、社会を見つめること、そして自分が表現するべきことは何なのかを考えることの大切さを学んだ。     
日常何気なく使っている言葉に対しても、自分自身の中で本当に根拠があるのか、また本当に身についた言葉として話したり書いたりしているかどうかを、非常にシビアに判断される。
たとえば映画を見た感想を、何気なく「感動しました」「良かったです」と言ったとする。先生の口からは必ず間髪入れずに「どういうところに感動した?」「どういうところが良いと思った?」という質問が飛び出す。
そんな会話を幾度となく繰り返しながら、漠然と「感動した」「良かった」ではなく、表現者として自分のアンテナがどういうものに対して、どう反応したのかをきちんと把握することの大切さを学んでいった。
基礎をやり直したことは、自分自身にとって過信ではなく、とても大きな自信になった。

そして大学4年も中盤にさしかかった頃、ごく自然に「廣瀬先生のもとで作曲の勉強をもう一年やりたい」と思うようになっていく。大学に残る方法は無いものかと考えていた私は、妙案を思いついた。
コントラバスとオーケストラにハマっていた私は、実は毎年出席日数が足りずに「ドイツ語」の単位を落とし続けていた。つまり試験を受ける資格がなかったわけだ。卒業するなら単位を取得しなければならない。
「そうだ。これまで同様、単位を落とせばよいのだ」と気がついたのは、当然といえば当然だった。

ただひとつだけ大きな問題があった。
作曲の単位をすべて取ってしまうと、肝心の専攻の授業が受けられない。
「もう1年、先生のもとで勉強させて下さい」と頼み込み、「作品発表」という単位をあえて落とす、つまり発表しないことを黙認してもらったのだ。
そして“確信犯”として、大学5年生を迎えることになる。
今だからこそ言える留年の秘密だ。もしその当時から母校に大学院が設置されていれば、また違った展開になっていたかもしれないが…。

5年生”はひたすら作曲三昧。あっという間に学生生活も終盤に入り、またしても私の心に変なささやきが聞こえ始める。
「卒業してどうするの?もっと作曲にハマれば?」
音大生の場合、学校の先生になるかオーケストラに入団する以外は、卒業したら就職するという世間一般の図式に当てはまらない人間が多い。その当時はそうだった。私もご他聞にもれず、何も仕事に結びつく活動はしていなかった。

あれこれ考えた私は、先生にこんな相談をした。
「美学を学べる大学院を受けてみようと思うのですが、どうしたらよいでしょうか」
世間知らずもはなはだしいとは、この事だ。大学院を受ける何の勉強もしていないのに、受けてみたいとは…。
おそらく先生はあきれていたと思うのだが、代案を提示してくれた。
「文化庁の芸術家研修員制度で、国内研修員というものがあって、ちょうど今その選考のための募集を行っているから、書類を出しなさい」
廣瀬先生の取り計らいもきっとあったと思う。音楽や美術、舞踊やバレエなど様々な分野の応募者の中から、運よくその国内研修員に選ばれることになる。

1980年、初めての東京生活が始まった。
研修先は「日本現代音楽協会」という団体で、担当は廣瀬先生だ。
つまり私にとっては、大学院に行くようなものだった。

弟子の数だけ、教育者としての廣瀬先生像があると思う。
徹底した基礎の習得をベースに、ひとりひとりを暖かく見守り、最大限生かすため、自分自身を見つめることを教え、社会を見つめることを教えた先生の熱意は並大抵のものではない。

僧侶の道を外れ、寺子屋のような大学キャンパスで作曲や音楽を基礎から学んだ。コントラバスという楽器の魔力にとりつかれ、オーケストラの経験もした。実は、副科管楽器はオーボエにしたのだが、それにもかなりハマっていた。
遠回りだったかもしれないが、有意義な時間だった。

そして新たに始まる東京での時間。
それは内弟子のような形での音楽修行そのものでもあった。

研修員の期間は1年だが、その期間も含めて丸3年という濃密で凝縮された時間を廣瀬先生の元で過ごすことになる。

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