2014年4月28日月曜日

25<第3章 レクイエムへ至る25年> 着ぐるみは人格を変える?

大学卒業後、3年間の東京での修行時代を経て27歳の時に関西に戻った私は、それから25年という時間をかけてレクイエム・プロジェクトに導かれていく事になる。

 関西に戻り、カルチャースクールでの仕事を始めて、それまでやったことが無いような体験もずいぶんした。子供向けの教室では一般的にいわれる「販促イベント」が大切で、体験教室などを行う。私が勤めていたスクールは京都市内に数カ所拠点があり、そのなかにはショッピングセンター内に開設された教室あった。
 家族連れが多く集まる場所でもあり、集客にはうってつけだ。イベントに参加してもらうためには、まず子供たちを呼び込む必要がある。その常套手段は“着ぐるみ”だ。

 ゆるキャラなどの言葉すら当然無く、くまモンも存在しない時代。しかしいつの世も着ぐるみは子どもたちに人気だ。
 夏に入った時期に行ったイベントで、私は生まれて始めて着ぐるみを着た。
 可愛いクマの着ぐるみだったと思うが、それを着て教室前のスペースで手を振りながら音楽に合わせて踊りながら子供たちに愛嬌を振りまく。その横で女性社員がチラシを配ってイベントへの参加を呼びかける仕組みだ。
 「わぁ、可愛い」と近寄ってくる女の子もいれば、握手をしにくる子供もいる。ひどいのは、人間が入っていることを知っている小学生ぐらいの男の子だ。着ぐるみを叩きにくるから要注意だった。

 着ぐるみを着るまでは恥ずかしさがあったのだが、着てしまえばその中から見える風景はまるで別世界。恥ずかしいどころか、逆に「可愛いクマになりきってやろう」と考え始めるから不思議だ。自分の心理的な変化に驚いたほどだ。人格が変わったのか?と思えるほどだった。
 ただ、着ぐるみの中はとても暑い。夏場は少し動いただけでも汗が噴き出す。集まってきた子供たちと一緒に、音楽に合わせて踊ったり飛んだり跳ねたり…。楽しい反面、それは灼熱地獄との闘いだ。頭までクラクラしてくる。でもなぜか快感でもあった。
 まったく違う人格の私がそこにいた。なんでも経験してやろうと思って引き受けた役割だったが、自分が知らない自分に気づいたのも事実だ。
 意外に知らない自分の内面を引き出す楽しさを実感したのも、この時が初めてだった。

 その他にも企画開発室長として、様々な仕事に取り組んだ。
 幼児を対象にした総合的な教育プログラムの開発では、それまで殆ど知らなかった世界に足を踏み入れることになる。たくさん絵本も読んだ。新しい子供のうたやリズム遊びなどもいろいろ知る。
 スタッフは美術、英語、幼児教育、音楽などを大学で専攻した若い女性が中心。ミーティングのなかで彼女たちの意見にも耳を傾け、カリキュラムの骨組みをまとめていく。それまで学んだ音楽だけでは経験できなかったことが、後々きっと役立つだろうという予感もしていた。

 幼児もたくさん指導した。ヤマハの音楽教室などで講師をしている人たちにも、より専門的な理論も教えた。指導者の養成もした。
 幼児から大人、そして指導者までをも含めた幅広い人たちに、音楽を接点に教える機会を持つことは、私にとっては多くのことを逆に教えてもらう時間でもあった。
 
 その他、コンサートもたくさん企画していくことになる。カルチャースクールでは、クラシック音楽の様々な楽器の講座があった。ところが私が嘱託社員になるまでは、講師同士が交流できる機会もあまりなかったようで、ただ楽器のレッスンをする場所という何とももったいない状態だった。
 企画開発室で仕事をするようになってまだ間もない頃、担当の部長にひとつの提案をした。
 「講師間の交流も兼ねて、定期的に講師を中心にしたコンサートを企画していきませんか?生徒募集につなげる販促イベントとしての意味合いもあるし、他の音楽教室には真似できないものが必ずできると思います。」
 部長も興味を示してくれた。そしてさっそく第一回のコンサートを企画することになる。

 最初のコンサートのテーマは「東西の響きと出会い」。
 日本と西洋の楽器によるコンサートだ。縦に構える木製の楽器“尺八”と“リコーダー”、弦をはじいて音を出す“琴”と“アイリッシュ・ハープ”という四種類の楽器による一風変わったコンサートでもある。
 それぞれのソロ曲、尺八と琴、リコーダーとアイリッシュ・ハープの二重奏、そして全員がアンサンブルをする新曲という構成で企画し、新曲は私が作曲するという内容だ。出演を依頼する予定の講師に趣旨を説明し、協力を求めていく。講師陣も運営サイドからの初めての企画提案に驚きつつも興味を示してくれ、是非成功させようと乗り気になってくれた。

 新曲はあまり難解な現代音楽にならないようにしたかった。何が何でも自分の価値観だけで作品を作ろうとは思わなかったのだ。
理由は3つ。1つは私の音楽世界を聴いてもらうための演奏会ではないこと。2つ目は講師陣が現代音楽を演奏する機会が少なかったこと。もう一つは、予想される来場者も同様に現代音楽を殆ど聴いた経験がない人たちであることだ。
 東洋と西洋の楽器を一つのコンサートで聴けることに興味を持ってもらいたかったし、それぞれの楽器が持つ伝統やその楽器のために書かれた古典的な楽曲をとおして、音楽の豊かさと面白さを少しでも伝えたかった。

 妥協するわけでは毛頭無い。ただ、与えられた条件や制約がある中で自分ができる表現方法を見つけることも、駆け出しの作曲家としてスタートを切るにあたり、大切にしたいとも思っていた。そのスタンスは今も変わっていない部分があるし、東京で活動するようになった後も、プロデュースする立場の仕事に役立つことになっていく。

初めての企画コンサートでの新曲は、東西4つの楽器が対話し時には葛藤しながらも、最後にはそれぞれが融合していく音楽を目指した。異なる風土や歴史を持つ楽器が、柔らかな風のように寄り添い、時には激しく渦巻く作品。
曲名は「風歴(ふうれき)」。関西に戻って初めて作曲した楽曲だ。そして「風」をテーマにした楽曲は、その後何曲か作曲することになり、新たな出会いへとつながるきっかけともなっていく。


 コンサートは思った以上に好評で、シリーズとして約1年の間に5回ほど企画し、2年ほど続けることになる。フルートの講師陣だけによるものや、母校・京都芸大の後輩たちの作品を演奏するものなど、工夫しながら行った。そんな活動をきっかけに、演奏家の人たちとの交流が始まり、広がっていくことになる。

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過去3話は

2014年4月3日木曜日

24<第2章 遠回りのはじまり> まわれ右

廣瀬先生は「まず10年間、音楽的な部分も含めて自分の足もとをしっかり見つめなさい。10年続ければ何かが見えるよ。」と私に常々語っておられた。
文化庁の芸術家国内研修員として始まった最初の東京生活も3年目を迎えた秋、私は次のステップをどう踏み出すかを考えていた。
いつまでも先生のお世話になっているわけにもいかない。自分にとって「足もとを見つめ、作曲家としてのスタートを切る」ことは、まず関西に戻って経済的にもきちんと自立し、自分の道を自分で切り拓くことでもあった。
 東京にそのまま残ることも考えたが、廣瀬先生に甘えてしまいそうで嫌だった。結論として関西に戻る選択をする。

 まさしく“まわれ右”だ。
 これからという時に、東京まで行っていながら再び関西に戻る選択。
不器用な生き方かもわからないが、その時は東京にこだわる理由は無かった。それよりも、当時はまだ関西(特に京都)で若手の地元作曲家が精力的に活動することが少なかったので、廣瀬門下の最初の弟子のひとりとして頑張ろうと考えていたのだ。

関西に戻るには仕事を見つけないといけない。
そんな時、子どもの時に使わなくなった足踏みオルガンを下さった方のご主人から、ある情報が入った。当時その方は京都の某女子大学の教授をされていて、その大学で教育学部の常勤講師(音楽)を公募しているというものだった。
 応募するためには、推薦文を書いて下さる推薦者が3人必要となる。もちろん廣瀬先生にまずお願いした。残りのお2人は、廣瀬先生がお願いして下さり、指揮者の山田一雄さん、そして作曲家の別宮貞雄さんという日本を代表する錚々たる方々が書いて下さった。お2人にはご挨拶とお願いをするため、時間を取っていただき、直接お目にかかってお話をさせていただいたが、緊張していたためか、どんな話をさせていただいたのか何も覚えていない。
結果的には、公募とはいうものの内定していた方がいらっしゃったようで、大学の講師として採用はされなかった。ただ山田一雄さん、別宮貞雄さんというお2人にお目にかかり、話をさせていただき、推薦文を書いていただいたことは、当時の私としてはあり得ないほど光栄なことだった。

さあそうなると、仕事を早く見つけないといけない。
仕事といっても就職するわけではない。音楽大学卒業生の多くは、自分の専攻の楽器などを教えながら活動するスタイルが一般的だったので、音楽教室で講師を募集しているところを探すことから始めた。さしずめ私の場合は、音楽理論やピアノなどを教えられる場所が必要だった。
後輩からの情報で、地元の楽器店が京都新聞社と提携してオープンさせたカルチャースクールがあることを知る。音楽の講座もクラシックからポピュラー、そしてジャズや邦楽まであり幅広い。それだけではなく、エアロビクス、ジャズダンスそして日本舞踊など、かなりの講座数を有していた。3年間離れただけで、ずいぶん京都も変化していた。

そのカルチャースクールの実質的な責任者と面談し、講師として雇ってもらえないかと相談すると、
「講師もしながら、企画開発室という自分が部長を務める事業部の中のセクションに入らないか」と誘われた。新しい講座の開発、幼児を対象とした総合的な教育プログラムなどを考え、実践していく仕事だった。
興味が湧いたのと同時に、いろいろな経験も積めるような気がした。ひとつだけ自分につとまるかどうか疑問だったのは、嘱託社員にならないといけないことだった。
つまり講師でもありながら、楽器店の社員という立場になる。迷う部分もあったが、まずは経験してみようと決心した。

廣瀬先生にそのことを伝え、大学3年生から6年間にわたるご指導に感謝した。東京では多くの貴重な経験とともに、オーケストラのいわゆる現代作品を2曲作曲した。
そして27歳となる年の4月。私は東京で活動するのではなく関西に戻るという選択をして、いよいよ本当の意味で作曲家としてやっていけるかどうか試されるステージに進んだ。

その選択に関して、廣瀬先生が本当はどう感じられたのかはわからない。当時を知る友人から聞いた話では、「せっかく東京に連れて行っていろんな経験をさせたのに、もったいない」と残念がられていたと、ずいぶん後になってから聞いたことがある。
私にとっては関西に戻って頑張ることは、先生の教えを守って実践するためだと思っていたのだが…。

不器用な選択だったかもしれない。真っ正直すぎたかもしれない。先生の立場で考えれば、私の選択は疑問だったのかもしれない。

かなりの遠回りをしたことは間違いない。
でも気がつけば、この歳になってもいつも遠回りをしている自分が、今もいる。


2014年3月29日土曜日

23<第2章 遠回りのはじまり> 惚れなきゃダメなんだよ!

 東京では勉強を続けながら、貴重な経験を積むことになる。
 廣瀬先生は、現代音楽の作曲以外に合唱曲やフルート・オーケストラなどの演奏会用の作品のほか、テレビドラマや映画などの音楽も多数手がけ、私が研修員としてお世話になっていた時期が一番多忙な時期でもあった。
作品が産み出される過程や瞬間を目の当たりにする経験は、通常なかなか出来ない。そんな素晴らしい瞬間に立ち会うこともでき、ドラマなどの音楽レコーディングの現場にもアシスタントとして立ち会うことが許され、たくさんの経験の場を与えていただいた。

レコーディングではよく指揮を任されたのだが、最初の頃は不慣れなためスタジオ・ミュージシャンに迷惑をかけることもしばしば。
「そんな指揮じゃ弾けないよ」
「また吹くのかよ!」などと、いじめられることもあったが、そんな事よりも貴重な経験ができることが楽しく、充実した時間でもあった。

今から30年ほど前のレコーディング現場(特にドラマの世界)では、楽曲のテンポをコンピューターや“ドンカマ”と呼ばれる機械で管理することはほとんど無かった。アナログのストップウォッチを見ながら音楽を録音していく。あらかじめ楽譜の数小節ごとに秒数のラップタイムを記入しておき、指定されたテンポで指揮を始め、決められた時間に収まるように微調整しながら音楽を録音していくのだ。

全体が1分や2分程度の長さの楽曲ならまだよいが、3分を超えるものになるとわずかの誤差が積み重なって、規定の長さよりも3秒オーバーとか、2秒足りないといった事態が時々起こる。音楽の最後の余韻が1秒強ぐらいのオーバーならまだ何とかなるのだが、2秒を超える誤差になると、もう一度録音するハメになるのだ。
指揮者に問題があってもう一度演奏しなければならなくなると、当然ミュージシャンは「また吹くのかよ!」となるだ。また限られた時間にたくさんの楽曲を録音しなければいけないので、慣れない頃は必死の状態が続いた。
今考えると「スタジオ・ミュージシャンのみなさん本当にゴメンなさい!」という状態だったと思う。大変だったが、貴重な経験はその後の仕事に大いに役立ったことは言うまでもない。

またこんなことがあった。
東京生活1年目のある時、初めてNHKテレビの番組音楽を担当させてもらうことになった。もちろんギャラをいただいて作曲する仕事としても初めてで、言ってみればデビューともいえる。
それは“ことりたちの四季”という番組で、季節の移り変わりの中で生きていく小鳥たちの様子を伝える子供向けの内容だった。数日間懸命にピアノに向かうのだが、思うように曲が書けない。いくら頑張っても納得できる形にならない。そんなふがいなさを感じながら悶々としていた。
正確に言えば曲はいくらでも書けるのだが、何か違う気がしていつまでたっても作業が終わらないのだ。もちろん徹夜、青息吐息の状態が延々と続く。
録音時刻がどんどん近づき夜も明けてきた時には、もう顔面蒼白。何とか書き終えてスタジオに入った。録音は無事終了したが、自分が情けなかったし悔しくもあった。

学生時代に学んだことが、そのままでは何も社会で通用しないことを思い知った。
音楽が必要とされる現場で、作品を完成させることの難しさを身をもって体験した最初の出来事。とても大きな意味を持つ日となる。
実は私にとっては録音が終わった後に、廣瀬先生と交わした会話が重要な意味を持っているのだ。

当日は私の録音の他に、廣瀬先生も別の録音があったため、一緒にNHKのスタジオにいた。2人分の録音がすべて終わり、帰りのタクシーの中で先生からこう質問された。
「初めて仕事として作曲してみて、どうだった?」
私は、頑張っても思うように作曲できなかったこと、大学で学んだ技術的な部分だけでは社会に何も通用しないと痛感したことなど正直に告白した。
話を聞き終えると同時に、先生は優しい表情を浮かべて言った。

「惚れなきゃダメなんだよ!」

 その言葉はとても深く、重く、また大きな課題として私の心に響いた。
 自分なりにその言葉の意味を少し理解できるようになれたと実感し、実践できるようになるまでに、それから十年近い時間が必要だった。
 
五線紙の向こう側にいるスタッフ、演奏家、そして音楽を必要としている対象、それを見たり聴いたりする人たちなどすべてを生かすこと。そして表現者として心底愛情を注ぐことの大切さと、社会との関わり、人と人との関わりの中でこそ音楽が生まれてくることを教えて下さった言葉だと思っている。
すべてが自分の作品だ。どんな仕事であれ、自分が関わる意味合いを考え、ひとつひとつを大切にしなければいけないという戒めの言葉でもある。

最近、とある音楽の事件で、ゴーストの先生の素晴らしさを論評する方々のコメントの中に、いわゆる劇伴といわれるドラマ音楽や様々な商業音楽、調性によって書かれた曲などは、クラシックの訓練をきちんと受けた人間であれば、いとも簡単で余技で出来ることのように言い放つ方が少なくないが、はたして本当にそうなのだろうか。
少なくとも、廣瀬先生は余技として商業音楽に関わっていなかったし、そのような姿勢で上から目線で仕事をすることを、極端に嫌われていたように思う。もちろんその先生の薫陶を受け、その現場をつぶさに見てきた私としても、同じ感覚でいる。
学生の頃、「私プロレスの味方です」という内容を私に話して下さった時、ジャンルに一流二流があるのではなく、そのジャンルの中で一流二流があるんだよとよく話してくださっていた。

「惚れなきゃダメなんだよ!」
平成20年に廣瀬先生は亡くなられたが、今でもこの言葉は忘れられない。
そして今でも時々自分に問いかけている。

「ちゃんと惚れて、仕事をしているか?」と。




2014年3月28日金曜日

22<第2章 遠回りのはじまり> 基本をイチからやり直し

 私が大学3年になる時、作曲専攻の主任教授が定年退官となり、その当時注目されていた作曲家が新しく教授として赴任された。
廣瀬量平先生だ。
現代音楽の専門雑誌で名前は知っていたが、まさか自分たちの教授になるとは夢にも思っていなかったので正直驚いた。その廣瀬先生との出会いが、現在の私を形づくる大きなきっかけとなり、多大な影響を受けることになっていく。

最初に課題として与えられたテーマは「基礎を徹底的にやる」ということだった。
受験勉強から大学2年までで習得していたはずの基本中の基本すべてを、さらに高度な課題を通して、すべてイチからやり直すのだ。それは「芸術家であるまえに職人であれ」という先生の言葉にも象徴されていた。
私はなぜかその「やり直し」が気に入り、新たな教育システムにどっぷり浸ることを選んだ。教授が替わった直後でもあり、どの程度の意識で取り組むかは学生ひとりひとりの自覚に任されていたように思う。

「和声法」「対位法」といった基礎の他に、楽曲分析も授業の大切な要素だった。音の長さ、高さ、音域、モチーフがどう展開されているか、和音、強弱、音色など、様々な音楽の構成要素を客観的に分析し、音楽の構成とはどういうものかを、徹底的に叩き込まれた。
すべてが新鮮だった。専門的に作曲を学ぶことの面白さにようやく気づいたのだ。

基礎という大切な土台を構築していくことと並行して、自分の足もとをきちんと見つめること、社会を見つめること、そして自分が表現するべきことは何なのかを考えることの大切さを学んだ。     
日常何気なく使っている言葉に対しても、自分自身の中で本当に根拠があるのか、また本当に身についた言葉として話したり書いたりしているかどうかを、非常にシビアに判断される。
たとえば映画を見た感想を、何気なく「感動しました」「良かったです」と言ったとする。先生の口からは必ず間髪入れずに「どういうところに感動した?」「どういうところが良いと思った?」という質問が飛び出す。
そんな会話を幾度となく繰り返しながら、漠然と「感動した」「良かった」ではなく、表現者として自分のアンテナがどういうものに対して、どう反応したのかをきちんと把握することの大切さを学んでいった。
基礎をやり直したことは、自分自身にとって過信ではなく、とても大きな自信になった。

そして大学4年も中盤にさしかかった頃、ごく自然に「廣瀬先生のもとで作曲の勉強をもう一年やりたい」と思うようになっていく。大学に残る方法は無いものかと考えていた私は、妙案を思いついた。
コントラバスとオーケストラにハマっていた私は、実は毎年出席日数が足りずに「ドイツ語」の単位を落とし続けていた。つまり試験を受ける資格がなかったわけだ。卒業するなら単位を取得しなければならない。
「そうだ。これまで同様、単位を落とせばよいのだ」と気がついたのは、当然といえば当然だった。

ただひとつだけ大きな問題があった。
作曲の単位をすべて取ってしまうと、肝心の専攻の授業が受けられない。
「もう1年、先生のもとで勉強させて下さい」と頼み込み、「作品発表」という単位をあえて落とす、つまり発表しないことを黙認してもらったのだ。
そして“確信犯”として、大学5年生を迎えることになる。
今だからこそ言える留年の秘密だ。もしその当時から母校に大学院が設置されていれば、また違った展開になっていたかもしれないが…。

5年生”はひたすら作曲三昧。あっという間に学生生活も終盤に入り、またしても私の心に変なささやきが聞こえ始める。
「卒業してどうするの?もっと作曲にハマれば?」
音大生の場合、学校の先生になるかオーケストラに入団する以外は、卒業したら就職するという世間一般の図式に当てはまらない人間が多い。その当時はそうだった。私もご他聞にもれず、何も仕事に結びつく活動はしていなかった。

あれこれ考えた私は、先生にこんな相談をした。
「美学を学べる大学院を受けてみようと思うのですが、どうしたらよいでしょうか」
世間知らずもはなはだしいとは、この事だ。大学院を受ける何の勉強もしていないのに、受けてみたいとは…。
おそらく先生はあきれていたと思うのだが、代案を提示してくれた。
「文化庁の芸術家研修員制度で、国内研修員というものがあって、ちょうど今その選考のための募集を行っているから、書類を出しなさい」
廣瀬先生の取り計らいもきっとあったと思う。音楽や美術、舞踊やバレエなど様々な分野の応募者の中から、運よくその国内研修員に選ばれることになる。

1980年、初めての東京生活が始まった。
研修先は「日本現代音楽協会」という団体で、担当は廣瀬先生だ。
つまり私にとっては、大学院に行くようなものだった。

弟子の数だけ、教育者としての廣瀬先生像があると思う。
徹底した基礎の習得をベースに、ひとりひとりを暖かく見守り、最大限生かすため、自分自身を見つめることを教え、社会を見つめることを教えた先生の熱意は並大抵のものではない。

僧侶の道を外れ、寺子屋のような大学キャンパスで作曲や音楽を基礎から学んだ。コントラバスという楽器の魔力にとりつかれ、オーケストラの経験もした。実は、副科管楽器はオーボエにしたのだが、それにもかなりハマっていた。
遠回りだったかもしれないが、有意義な時間だった。

そして新たに始まる東京での時間。
それは内弟子のような形での音楽修行そのものでもあった。

研修員の期間は1年だが、その期間も含めて丸3年という濃密で凝縮された時間を廣瀬先生の元で過ごすことになる。

2014年2月27日木曜日

21<第2章 遠回りのはじまり> 怪我の功名?

 「オーケストラ」の授業を受けられるかどうかの瀬戸際となる、副科コントラバスの学年末試験では、ちょっとしたハプニングがあった。
演奏しようと舞台に横たわっているコントラバスに近寄り、しゃがみこんだ時のこと、一瞬右膝に軽い痛みが走ったのだ。それは楽器底部から突き出ている「エンド・ピン」という、床に固定する金属製の支柱にぶつかった痛みだった。

緊張のあまりか、気にせずにそのまま楽器を手に取り演奏していると、試験官の先生方が何やら笑いを押し殺したような表情で私を見ている。状況がよくわからないまま無事演奏を終えると、先生方からは大きな拍手とともに何と爆笑が…。
ひとりの先生が一言。
「おまえ、ズボンが破れて血が出ているぞ!オーケストラの授業は受けさせてやるから、消毒してこい!」

そう言われてはじめて気がついた。
ぶつかった拍子にズボンが破け、エンド・ピンの先端が膝に刺さって、少しばかり怪我をしていたのだ。そんな状態でもお構いなしに必死で弾いていた私の姿が滑稽でもあったので、先生方は笑いをこらえていたらしい。
練習の成果なのか“怪我の功名?”なのかはわからないが、2年生から念願だったオーケストラの授業を受けられるようになり、私はどんどんコントラバスの魔力にハマっていく。

オーケストラの授業は、あっという間に私を魅了していった。
子供の頃からピアノを習っていたとはいえ、ひとりで孤独に練習するのと、大勢でひとつの音楽を創りあげていくオーケストラとでは、充実感がまったく違っていたからだ。そんなアンサンブルの経験は、以後の私の音楽に大きな影響を与えることになる。
来る日も来る日もコントラバスとオーケストラに没頭する毎日が続く。もちろん本来の作曲専攻の勉強はしていたが、気分はまさに「弦楽専攻」だった。

1年生の頃から親しい友人たちが弦楽専攻生だった事もあり、遊ぶのも呑みにいくのも弦楽器を中心とした連中と一緒。そんな彼らと、月に一度は理由が無くても必ず集まり、酒をヘベレケになるまで呑む「月例会」を結成。みんなお金は無いはずなのに、呑むお金だけはどういうわけかあったようだ。
学園祭になれば弦楽専攻の仲間と「串かつ屋」を開店し、髪の毛や服にまとわりつく油の強烈な匂いに軽い目眩を感じながらも、「へい、らっしゃい!」と威勢よく毎日“串かつ”を揚げていた。
学園祭最終日に行われる「ダンスパーティー」(今となっては古色蒼然とした名前だが)では、学生バンドの一員としてエレキベースを担当し、学生たちの馬鹿騒ぎをサポートしていた。そんな楽しみもコントラバスに出会ったからこそのものだった。

 ところが3年生になったある日、意外なことから自分の気持ちの中に大きな変化が訪れたのだ。
そのきっかけは、コントラバスのレッスンを受けていた先生からの何げない言葉だった。「上田くん、九州交響楽団でコントラバス奏者を募集しているけど、入団試験を受けてみる?」
つまりプロのオーケストラの入団試験を受けないか、というお誘いなのだ。
九州交響楽団は博多にある。母のふるさとだ。興味はとてもあった。
自分で言うのもおこがましいが、「好きこそものの上手なれ」の例えのとおり、急速に上達したのも事実だった。弦楽専攻の人たちからアンサンブルに誘ってもらい、シューベルトのピアノ五重奏曲「鱒」を演奏して学内のコンサートにも出演したり、同学年の弦楽アンサンブルでコントラバスを弾いていていたほどだ。
でも入団試験を受けるだけの実力が本当にあったのかどうか、その先生がどの程度本気だったのかはわからない。

確かに少し迷ったのも事実だ。
ただ、さすがにコントラバスにハマっていた私ですら我にかえり、「自分の専攻はなんだっけ」と改めて考えさせられることになる。

作曲の教授も定年退官で新しい先生に替わっていた。作曲の面白さに改めて気づき、本来の専攻に力を入れなければいけない時期だったのだ。

私はもちろん入団試験を受けなかった。
オーケストラの授業は先生方の理解もあり、4年生の終わりまで続けて受講した。
それは特別な配慮だとも思っていたので、コントラバスのレッスンも受け続け、すでに単位取得済にも関わらず、学年末試験は必ず受けるということを自分の課題にしていた。




20<第2章 遠回りのはじまり> 魅力と魔力

 私が通うことになった京都市立芸大の音楽学部は、当時岡崎という場所にあり、平安神宮の神苑、つまり庭園に隣接していた。
 各学年の定員は60名。その60人の枠の中に作曲をはじめ、各専攻生がいる。全学年合わせても240名。とても小さな学部だ。
 キャンパスというには少々古ぼけていたが、狭いながらも風情は満点。大学のキャンパスというよりは、寺子屋といったほうが近いかもしれない。(写真は当時のままの姿で残っている校門横の守衛室跡)
大学の敷地全体は終戦直後まで武道専門学校があった場所であり、武徳殿という武道場や弓道場などが残されていた。その外観がお寺のようだったので、観光シーズンともなれば外国人がよく間違えてキャンパスに入って来る。学内にはしだれ桜があり、春には花見まで出来る。秋になると“いちょう”の木の下で銀杏を拾う光景まで見られた。
 
 西洋のクラシック音楽を学ぶ大学とは思えない環境だが、それがまた日本的でもあり、京都らしくて気に入っていた。平安神宮の庭園との境には、申し訳程度に金網があるのだが、ボロボロに朽ち果てている箇所が数カ所有り、いわばそこが学生にとっては庭園への無料の入り口でもあった。
 数が少ない練習室は、どこも隣の音が筒抜け。ある時プレハブの練習室でピアノの練習をしていたら、隣の部屋でアンサンブルの練習をしていたピアノ科の先輩が入ってくるなり楽譜を指さし、
「上田くん、さっきからここの臨時記号をずっと付け忘れているよ!」
と注意してくれたりする。よほど気になったんだろう。

そんな音の入り交じる練習室のすさまじい環境にも関わらず、みんなその場所を奪い合うように練習していたことを思い出す。
 特筆すべきは、春のゴールデンウィークになると、その前後を含めた10日間ほどが休校になったことだろう。理由は毎年必ずその時期に全国武道大会が開催され、練習室をはじめ学内のほとんどの部屋が関係者の控え室などに使用されるためだった。
何とも大らかな時代。そして私にとっては何もかもが魅力に満ちた空間だった。
かつての剣道少年は、なぜか剣道を再開することもなく、音楽に没頭していく。

音楽大学では、「副科」といって専攻以外に履修する科目がある。ピアノと声楽だけが必修という専攻が多い中で、「作曲科」はそれに加えて弦楽器、管楽器、指揮法なども必修科目だ。
私は大学1年で弦楽器の単位をまず取った。選んだ楽器はコントラバス。オーケストラでは一番低音を支える楽器でもある。ヴァイオリンを選ぶ人が多い中、私はどこか思考が変わっていたのかもしれない。

鍵盤楽器以外の本格的な楽器に初めて触れられる機会。もう楽しくて仕方がない。毎日コントラバスの練習ばかり。専攻が「作曲」であることを忘れているかのような毎日を送っていた。
担当の先生も、専攻生と同じだけの時間を私のレッスンに充ててくださった。

コントラバスの魅力は、私を虜にした。
魅力と言うよりも魔力と言ったほうが近いかもしれない。完全にハマっていた。ひたすら練習を続け、ある日「オーケストラ」の授業を担当する先生に相談した。
2年生になったらオーケストラの授業を受けさせて下さい!」

なんという無謀な相談だろう。
本来は弦、管、打楽器の専攻生しか受講できない授業。さすがに前例の無い、前代未聞の相談なのは明白だ。
いくら自由な校風と言っても、今の時代ならそんな希望は受付けてもらえないはず。
ところが先生の回答は、
「学年末のコントラバスの試験で、他の試験教官全員のお墨付きをもらえたら受けさせてやる」
というものだった。
もう有頂天だ。チャンスがあるのだ。ますますコントラバス専攻のような生活に浸ることになっていく。
 僕にとっては、魅力と魔力に満ちた時間の始まりだった。



2014年2月11日火曜日

19 <第2章 遠回りのはじまり> サクラは咲くか?

入試要項の発表は、音大の受験生にとって重要な意味を持つ。実技試験の課題曲、選択曲が発表されるからだ。
私が受験した頃の京都市立芸大では、作曲専攻に課される副科ピアノが例年かなり難しかったし、合否判定のなかでも専門実技と同程度重視されるという話だった。
副科とは専門以外の科目という意味だが、私が受験する年の作曲専攻に与えられた課題は、リスト作曲の「二つの演奏会用練習曲」から「森のささやき」という曲だった。

リストの曲は「ラ・カンパネラ」や「愛の夢」などが広く知られている。ピアニストでもあり、超絶的な技巧の持ち主だった彼のピアノ曲は、群を抜いて難易度が高い。「ピアノの魔術師」と呼ばれていたほどだから、簡単に弾きこなせる曲ではない。
まして私はピアノ科志望の人間ではないし、それなりに上達はしていたが、リストの曲を弾きこなせるほどではなかった。弾いた経験も皆無だ。
課題曲を見て愕然としたことは、言うまでもない。

「ピアノの実技がネックになるかもしれない」と本当に思った。
専門の実技に自信があったわけではない。ただ作曲の実技課題を攻略するには何が必要で、どこまでのレベルを入試で要求されるかは概ね把握できていた。
だから専門実技で落とされるならまだ納得がいくと思えた。ところがピアノの課題曲は想像をはるかに超えた難曲。それが一番の不安材料だったのだ。

要項の発表後から、それまで作曲関連の実技習得に充てていた4時間とほぼ同じ時間をピアノの練習に費やした。とにかく弾くしかない。少しずつ形にして、入試に間に合わせるしか方法がないのだ。
「父の家出」騒動の間も、もちろん練習を休むことはできない。

年が明け、入試も二ヶ月後ぐらいに迫ってきた頃になると、不思議に見通しが立ち始める。手前味噌ながら自分でもピアノが飛躍的に上達したのでは?と思える状態になっていく。家の近所のおばさんからも、「ピアノが上手になったねぇ。レコードの音が聞こえてきたのかと思ったわ」と言われ、根っからのポジティブ人間である私は、お世辞を真に受けてさらに練習に拍車がかかっていく。

高校の音楽のM先生に頼み込んで、入試前の約2ヶ月は音楽室のグランドピアノを授業が始まる前の時間帯に1時間ほど貸してもらうことにも成功する。自宅のピアノはアップライトという縦型だが、試験はグランドピアノ。微妙な違いもあり、出来るだけ慣れておく必要があったので、有難かった。
その音楽の先生まで試験直前の1ヶ月ほどは、初見視唱やコールユーブンゲンといった、歌をともなう課題のチェックを手伝って下さった。當麻先生はじめ、音楽に関係するまわりの先生方が懸命にサポートして下さったことは、大きな心の支えでもあった。

3月初旬、いよいよ入試が始まった。
作曲の実技試験は2日間。和声法という理論的な試験が初日。与えられたモチーフを元に、何も楽器を使わずにピアノ曲を作曲する試験が翌日だったように記憶している。どちらもその時までに蓄えた力を、ありのまま出す以外は考えなかった。それでダメなら力不足以外のなにものでもない。

例年、作曲専攻は15人程度が受験し3人程度しか合格しない。ところがこの年に作曲専攻を受験した人数は20名を超えていて、倍率で言えば8倍程度の予想だった。
しかも他の人たちは少なくとも3年近く作曲の受験勉強をして、試験に臨んでいる。私はその半分の時間しか勉強していない。
でも受験すると決めて準備をしてきた以上、そんなことは言い訳にすらならないことが、よくわかっていた。
専門実技が終わり、合格できる可能性は自分の判断では40パーセント。残りの実技試験でその確率がさらに下がらないように頑張るだけだった。

ピアノ、聴音、新曲視唱、コールユーブンゲン、楽典といった実技や筆記試験と、学科試験などが数日間にわって行われた。
一番不安だったピアノも、受験できるレベルの演奏に何とかこぎ着けていたし、試験でも無事に弾き終えた。当然ながら、最終的には作曲の専門実技の成績によって合否が決まる。

合格発表までの約一週間を、どう過ごしていたのかまったく覚えていない。空白の時間だ。
そして発表の日がついに来た。

合格者の受験番号が張り出される瞬間は見たくなかった。ダメだろうと思っていたので、急いで見に行く必要も無かった。
大学の掲示板の前に到着したときには、多くの受験生はすでに帰った後で、数人がいる程度だった。
そして受験票の番号を確かめながら、合格者の番号と照らし合わせていく。

「あった!」
「自分の番号があった!」

嬉しさと、気恥ずかしさのような気持ちが押し寄せて来た。自分で顔の表情が次第にほころんでいくのがわかる。
でも「やっぱり見間違えたのではないかな?」と不安になり、何度も確認した。
  
音楽と無縁の家庭に生まれた私。
でもオルガン、ハーモニカ、木琴、ピアノ、歌、エレクトーンといったものを習わせてもらえた。続けさせてくれた親に心から感謝した。
父に「一度だけ」認めてもらった機会を、何とか生かすことができて、安堵した。

寺を継ぐ道を自分で外れてしまった私が、音楽を専門に学ぶ大学に進学することになった瞬間だ。それは自分が進むべき道に初めて光を感じた日でもある。
もちろんまだ何も始まっていない。ただ、音楽を専門に学ぶ入口に立っただけ。すべては、これからだ。その後に待ち構えている様々な出来事、そしてその過程で表現していく者としての自分が形成されていくことなど、想像もしていなかった。

祝、サクラ サク!