2014年5月21日水曜日

28<第3章 レクイエムへ至る25年> 初めてのイベント音楽

母が亡くなってから、映像作品やテレビCM、イベントなどの音楽を手がける機会が少しずつ増えていく。当時から関西ではそういった仕事の絶対量は、東京に比べると明らかに少なかったが、出会った方々とのつながりから仕事をいただき、自分の音楽が求められていく事は、自信にもなり嬉しいことでもあった。廣瀬先生のアシスタントとして東京で経験したこと、なかでもドラマや映画などの音楽制作現場で学んだノウハウが少しでも発揮できる仕事は、また楽しくもあった。

 最初に手がけたイベント音楽は、福井市制100周年記念式典だ。それまで60年以上続いた昭和という時代から平成に変わった年の事だ。その年に市制や町制100周年を迎える地方自治体が多く、福井市もその中のひとつ。きっかけは、カルチャースクールで私が最初に企画したコンサート「東西の響きと出会い」に出演していただいたハープ奏者・雨田光示(あまだこうじ)さんが福井市から式典の音楽に関して相談を受け、推薦してくれたのだった。

 雨田さんは福井と縁が深い方で、多くのハープ奏者を育てた方。アイリツシュ・ハープという小型のハープを日本に普及させた方でもある。その雨田さんが推薦してくださったことで、責任のある大きな仕事を経験させていただいた。
 式典は福井の過去・現在・未来を表現した映像と音楽を軸に式次第が進行していく。司会は当時の人気アナウンサーのひとり福留功男さん、ゲストとして福井市民の歌を作曲し、歌っておられたダ・カーポのお二人が華を添えていた。
私は映像とからむ部分も含めた音楽すべての作曲をし、小編成のオーケストラが生演奏する。その指揮も私の役割で、式典の模様が福井放送によりテレビで同時生中継されるということもあり、なかなか緊張感のある仕事だった。

 映像の変化や長さに合わせて音楽を指揮するという、東京のスタジオでの経験を存分に生かせる仕事でもあった。ただ式典のエンディング部分は最大の難関だったのだ。テレビ中継に合わせて構成されているので、一番長さがシビアな部分だからだ。
音楽が短くなると、CMまでの間が間延びする。長ければCMで音楽の最後の何秒かが切れてしまう。最後の音の余韻が消えた後すぐ、CMに切り替わる必要がある。
 音楽の演奏時間を映像の長さにぴったり合わせ、順調に式典の音楽をこなしていった。

そしていよいよエンディングの演奏に入って数秒経過した時の事だ。ふと押したはずの手元のストップウォッチを見ると秒針が動いていない…。
 冷や汗が出た。でもどうすることも出来ない。あとは自分の体内時計を信じて指揮をするだけだ。最後の一分ぐらいからカウントダウンするタイム・キーパーの女性の声がイヤフォンから聞こえてくる。
 「終了まで45秒…30秒…20秒…、15秒、1098321、ゼロ」
 このカウントダウンはあくまで放送用のもの。したがって最後の音の余韻を計算して、残り一秒半ほどのあたりで音が鳴り終わっている必要がある。

 うまくいっただろうか?と不安でもあったが、何とかうまくいったはずだった。
スタッフに
 「最後の長さは大丈夫でしたか?」と聞くと
 「バッチリでしたよ!問題ありません」と答えてくれた。
でも私には確信はない。本番終了後にビデオを見て、やっと安心した。自分でも驚くほど、寸分の狂いもなく演奏を終えていた。経験を生かせたと実感できた瞬間でもある。

この仕事は後々大きな意味を持つことになる。ゲンダイオンガクとは違う音楽を作曲することの楽しさや厳しさを、あらためて感じたし、チームで一つのプロジェクトに取り組む喜びを実感したからでもあった。
「惚れなきゃだめだよ」という廣瀬先生の言葉が、理屈ではなく身体の一部として自分のものになり始めているように感じられた。

 雨田光示さんには、その他にもたくさん仕事をご一緒させていただいた。雨田さんが長年主宰してこられたアマダ・ハープ・アンサンブルのための委嘱作品や、編曲の依頼をいくつもいただいた。
 そんな雨田さんだが、20091月に亡くなられた。その前年、私の携帯に電話をかけてこられた。
 「京都に来たら、連絡して下さい。一緒にお昼ご飯でも食べよう。」
 そう言って下さったことがその時含め2度あった。
忙しさにかまけて、なかなか会いに行けなかったのが悔やまれる。

余談だが雨田光示さんは長男。次男はネコの絵でも有名なチェロ奏者・雨田光弘さん(元日本フィルハーモニー交響楽団首席チェロ奏者)。そしてお父様は彫刻家(国際的に活躍され「日本のロダン」と呼ばれていたらしい)、画家、そしてハープ奏者(マルセル・トゥルニェの弟子)、はたまた京極流筝曲宗家二世というとてつもない才能の持ち主・雨田光平さん。ご子息の一人は私の大学時代の後輩で、チェロ奏者として活躍されている。

最後に是非お伝えしたいことがある。ご存じの方もたくさんいらっしゃると思うが、福井には盛んな産業のひとつに繊維産業がある。戦時中「落下傘」の布を作っていたためか、戦争末期昭和207月にはB29爆撃機127機による集中的な福井大空襲があり、太平洋側の主要都市同様、壊滅的なダメージを受ける。そして戦後の復興が始まって間もない昭和23年には福井大震災に見舞われ、またしても多くの犠牲者を出すことになる。ただその両方ともが現在ではあまり語られることも無く、知る人も少ないことは残念なことだと思っている。もしご興味があれば、一度下記URLをご覧いただければと思う。

***********************************
バックナンバー 




0 件のコメント:

コメントを投稿