2014年5月18日日曜日

27<第3章 レクイエムへ至る25年> 母の死

 関西に戻り四年目の秋、母は亡くなった。私が30歳の時だ。 
 脾臓に出来たガンが肝臓に転移していた。私が大学4年の時に母は子宮ガンを患ったが、その転移ではなく原発性だった。
 定期的に検査をしていたにも関わらず、見つからなかったようだ。もともと見つけにくい場所のガンであるうえに、現在ほど治療技術も進歩していなかった。気づいた時には既に手の施しようがない状態で、余命は半年だった。
 
 抗ガン剤は投与されたが、言ってみればそれは気休めにほかならない。手術で治る見込みもなく、手術をしたとしても体力の消耗から余命を縮めてしまう可能性が高いので、延命治療に重点がおかれた。入院して最初の頃はまだ元気も多少あったが、次第に起き上がることも難しくなっていく。
そんなある日、大きくなったガンが腸を圧迫して腸閉塞をおこしかけたのだ。緊急手術で一命をとりとめたが、ガンには手をつけられない。
 痛み止めのモルヒネの量も日増しに増えていく。そのために意識が朦朧としている時間が長くなり、病室にいても会話すらあまりできない。
 快復する見込みがゼロという中で、病床の母を見ながら「いのち」の終焉に向き合う「覚悟」をするための、私に与えられた時間的な猶予だったようにも思う。
 
 父と共に精一杯看病をしたが、出来ることは殆ど何もない。時間が許す限りそばにいて、時々水を口に含ませたり、たまにうつろな状態で話す言葉に応対するぐらいだ。

 「家に帰りたい」と一度だけ言った。
 亡くなる数日前には、
 「お前とは短い年月しか一緒にいてやれなかったね。もう何もしてやれないね。」と、最後の力を振り絞るように言った。母の無念さを思うと胸がつまった。でも母の前で泣くわけにもいかなかった。

 その数日後、入院からほぼ半年経った日のこと、担当の医師が父と私に意志を確認した。病室の外で、苦渋に満ちた表情とともに小声で話し始める。
 「いつ亡くなられてもおかしくない状態です。このまま延命措置を続けることも可能ですが、自然な形で天寿を全うしていただく選択肢もあります。どうするかは、ご家族の方がお決めになることです。お考えいただけますか?」

 無為に余命を延ばしても、母が快復するわけではない。痛みと闘う時間を延ばすだけにすぎない。覚悟するための時間は母から与えてもらった。
 いよいよ決断する時が来ていた。

 父は私を見た。私は、父の目を見てゆっくりうなずいた。
 少し間をおいて父は一言、医師に告げた。
 「延命措置を終えて下さい…」
 医師は
 「解りました。では明日。」と言った。

 病室に戻ってしばらく無言の時間が流れた。父は父なりに、私は私なりに最後の心の整理をしていたのだ。そんな沈黙が突然破られる。
 母の状態が急変し始めたのだ。まるで母も最後の覚悟をしているかのようだった。そしてすべての思いを飲み込むようなしぐさをすると、母は息を引き取った。
 母も自分の意志で最後の決断をしたかったのだろう。そう思った。まるで医師と私たちが病室の外でしていた会話を聞いていたかのようだった。

 自宅に母を連れて戻り、仮通夜を営んだ。眠れるはずもないが、交替で仮眠しようということで横になってうとうとしていた時、ゴーッという大きな音に包まれた。それはゆっくりと遠ざかっていく。聞いたことのない不思議な音だった。目を閉じたまま、その音が消えるまで聞いていた。なぜか私には母が旅立つ音のように思えたことを今でも鮮明に覚えている。目を開けてはいけないような気がしたのだ。

 告別式では涙が止まらなかった。祖父の死は経験していたが、自分を生んだ「母」という存在を亡くした悲しみは、想像をはるかに越えていた。嗚咽した。
 苦労した母の人生を思うと、とめどなく涙があふれ出た。

 入院後、私たちに残された時間は少なかったが、一度だけ帰宅を許されたことがある。久しぶりに自宅に戻った母は嬉しそうだった。そして食事を一緒にできることを喜んでいた。それが母を囲んだ最後の食事となることは、わかっていた。
 ただ、そんな時間が持てたことがせめてもの救いだった。

 母の死から数ヶ月後、関西学生マンドリン連盟という団体から、演奏会のための楽曲を委嘱される。母の死後、初めて作曲する作品となった。

 困難を乗り越え、未来に向かって前進していく若者の姿をイメージし、大らかで伸びやかな感性、清々しさと優しさ、柔軟な知性・・・、そんな思いを悲しみのどん底で曲に託した。「プレクトラム・セレナード」という楽曲だ。プレクトラムはギターやマンドリンなど、弦をつま弾く楽器で使う爪、ピックと同じ意味の言葉だ。
 心の中で、亡くなった母に捧げた曲でもある。もちろん難解な現代音楽ではなく、調性があるメロディーもわかりやすい作品だ。
 

この曲は19876月の初演から数えて11年後にようやく出版されたが、作曲してから25年以上経た今でも、全国のどこかで演奏されている。

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