2014年5月6日火曜日

26<第3章 レクイエムへ至る25年> ゲンダイオンガクな日々

関西に再び戻ってからの私は、演奏家の仲間たちと様々なコンサートを行い、どんどん作品の発表も行うという「ゲンダイオンガクな日々」が日常となっていく。

 いわゆる何をもって「現代音楽」と呼ぶのかを定義づけることは難しい。表現の手法が先鋭かつ前衛的で、抽象的なイメージがどうしても付きまとうが、必ずしもそのような音楽だけが現代音楽ではない。ただ一般の多くの人たちからすれば、現代音楽は「調性」感が無いものが多く旋律も認識しにくいため、どうしても難解で心地よさとは対極にあるものという印象が強いかもしれない。
 また現代音楽がアカデミックな権威と結びつき、形骸化してしまうとそれはもはや先鋭的でも前衛的でもなく、日常や知的好奇心から遊離したものになるように私は常々思っている。現代音楽と呼ばれる音楽の中にも名曲は数多くあり、駄作もまた然り。
 
裏返せば、どうやって自分の表現したい音楽を、独自の手法で表現するかという課題を担いながら、世の作曲家はもがき苦しみながら切磋琢磨しているといっても過言ではない。
作曲家の卵としてのスタートをしてからしばらくは、私もやはりそんな自分なりの「ゲンダイオンガク」を探して、もがきながらたくさん作曲していた。

同世代の演奏家たちとの交流の中で、作品を委嘱され作曲する機会も度々あった。演奏家がリサイタルを行うのと同じように、すべて自分がお金を負担する形で、自分の作品だけのコンサートも京都のホールで2度開催したり、コンサートの企画を頼まれることも多くなっていく。
まずは何でもチャレンジして、自分で開拓しなければ始まらない。どんなジャンルの音楽を作曲するにせよ、自分の新しい作品を書いていくために、積極的に活動していた。

京都では祇園祭の時期に合わせて、身近でクラシック音楽を楽しめるようなことができないかと相談を受け、「祇園祭クラシックライブ」というコンサートを3年ほど続けた。コンサートホールではない場所で、クラシック音楽を気軽に聴ける機会は、当時まだそれほどなかった。喫茶店やレストラン、お寺などで、ただ単にクラシック音楽を演奏して聴いてもらうのではなく、それぞれにテーマを決めてプログラム構成やコンサートそのものの在り方を工夫していく。
例えばリーズナブルな値段で美味しいフレンチを提供していたレストランでは、モーツァルトの音楽を聴かせて醸造したその名も「モーツァルト」という日本酒とともに、それに合う創作フレンチを召し上がっていただきながら、モーツァルトの曲を中心に軽い感じに編曲したクラシック音楽を聴いてもらう。そんな企画などもした。

その他、演劇や一人語りなどのジャンルで活動している人たちとも仕事をしたり、
ひとつの型にはまらない活動を意図的に行っていた。自分の音楽が果たせる役割を広げていきたいという意欲と、他ジャンルとのコラボレーションへの好奇心を絶えず持ち続けることを、大切にしていた。
「ゲンダイオンガク」の中だけで音楽を考えるのではなく、何か自分らしい音楽との関わり方が出来ないものかと悶々としていたように思う。
自分とは何か?それを知ることが一番の課題でもあり、それは延々現在まで続いているものとも言える。

それ以外に自宅では作曲科を受験する生徒を教えたり、他の音楽教室でも理論やピアノ、聴音やソルフェージュといったレッスンも日常的に行っていた。

 ただカルチャースクールでの嘱託社員生活は、2年間で終わりを告げる。きっかけは2年目に社内の組織替えがあり、「指導室」という新しいセクションに配属になり、室長という責任者になったことだ。
「指導室」というのは、講座の指導内容や講師を管理するセクションだった。その立場で仕事をすることは、私にとってだんだん辛い状況を産み出す結果につながる。
なぜなら講座の指導内容の管理は、企画開発の仕事とも共通する部分があるが、音楽活動を一緒にやっている人たち(演奏家)を管理するという立場は、創作活動とどうしても相容れない部分が出てくる。
経営者側に立たないといけない。それは当時の私にとって出来ないことでもあった。作曲家として活動を続けていく以上、演奏家は大切なパートナーだ。演奏のギャラを払うことがあったとしても、それは雇用関係とは意味合いが違う。会社という組織の中で、経営者側の人間として自分の居場所を作ってしまっては本末転倒になる。
組織の中で仕事が出来ないということではなく、音楽を産み出す仲間たちを管理する立場にはなれないということだった。そのために関西に戻ったわけではない。

いつクビを切られるかはわからないが、上司には経営者側の人間としてではなく、一人の講師としてカルチャースクールに関わることを選びたいと申し出た。そして嘱託契約が切れる三月末で雇用形態を変えてもらうことになった。

会社という組織の中に居続けていたら、おそらく今の僕は存在しない。
それ以来現在までずっとフリーランスの立場で、様々な組織やジャンルの人たちとも一緒に、仕事をしている。 

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前回は 25<第3章 レクイエムへ至る25年> 着ぐるみは人格を変える?


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