2014年4月3日木曜日

24<第2章 遠回りのはじまり> まわれ右

廣瀬先生は「まず10年間、音楽的な部分も含めて自分の足もとをしっかり見つめなさい。10年続ければ何かが見えるよ。」と私に常々語っておられた。
文化庁の芸術家国内研修員として始まった最初の東京生活も3年目を迎えた秋、私は次のステップをどう踏み出すかを考えていた。
いつまでも先生のお世話になっているわけにもいかない。自分にとって「足もとを見つめ、作曲家としてのスタートを切る」ことは、まず関西に戻って経済的にもきちんと自立し、自分の道を自分で切り拓くことでもあった。
 東京にそのまま残ることも考えたが、廣瀬先生に甘えてしまいそうで嫌だった。結論として関西に戻る選択をする。

 まさしく“まわれ右”だ。
 これからという時に、東京まで行っていながら再び関西に戻る選択。
不器用な生き方かもわからないが、その時は東京にこだわる理由は無かった。それよりも、当時はまだ関西(特に京都)で若手の地元作曲家が精力的に活動することが少なかったので、廣瀬門下の最初の弟子のひとりとして頑張ろうと考えていたのだ。

関西に戻るには仕事を見つけないといけない。
そんな時、子どもの時に使わなくなった足踏みオルガンを下さった方のご主人から、ある情報が入った。当時その方は京都の某女子大学の教授をされていて、その大学で教育学部の常勤講師(音楽)を公募しているというものだった。
 応募するためには、推薦文を書いて下さる推薦者が3人必要となる。もちろん廣瀬先生にまずお願いした。残りのお2人は、廣瀬先生がお願いして下さり、指揮者の山田一雄さん、そして作曲家の別宮貞雄さんという日本を代表する錚々たる方々が書いて下さった。お2人にはご挨拶とお願いをするため、時間を取っていただき、直接お目にかかってお話をさせていただいたが、緊張していたためか、どんな話をさせていただいたのか何も覚えていない。
結果的には、公募とはいうものの内定していた方がいらっしゃったようで、大学の講師として採用はされなかった。ただ山田一雄さん、別宮貞雄さんというお2人にお目にかかり、話をさせていただき、推薦文を書いていただいたことは、当時の私としてはあり得ないほど光栄なことだった。

さあそうなると、仕事を早く見つけないといけない。
仕事といっても就職するわけではない。音楽大学卒業生の多くは、自分の専攻の楽器などを教えながら活動するスタイルが一般的だったので、音楽教室で講師を募集しているところを探すことから始めた。さしずめ私の場合は、音楽理論やピアノなどを教えられる場所が必要だった。
後輩からの情報で、地元の楽器店が京都新聞社と提携してオープンさせたカルチャースクールがあることを知る。音楽の講座もクラシックからポピュラー、そしてジャズや邦楽まであり幅広い。それだけではなく、エアロビクス、ジャズダンスそして日本舞踊など、かなりの講座数を有していた。3年間離れただけで、ずいぶん京都も変化していた。

そのカルチャースクールの実質的な責任者と面談し、講師として雇ってもらえないかと相談すると、
「講師もしながら、企画開発室という自分が部長を務める事業部の中のセクションに入らないか」と誘われた。新しい講座の開発、幼児を対象とした総合的な教育プログラムなどを考え、実践していく仕事だった。
興味が湧いたのと同時に、いろいろな経験も積めるような気がした。ひとつだけ自分につとまるかどうか疑問だったのは、嘱託社員にならないといけないことだった。
つまり講師でもありながら、楽器店の社員という立場になる。迷う部分もあったが、まずは経験してみようと決心した。

廣瀬先生にそのことを伝え、大学3年生から6年間にわたるご指導に感謝した。東京では多くの貴重な経験とともに、オーケストラのいわゆる現代作品を2曲作曲した。
そして27歳となる年の4月。私は東京で活動するのではなく関西に戻るという選択をして、いよいよ本当の意味で作曲家としてやっていけるかどうか試されるステージに進んだ。

その選択に関して、廣瀬先生が本当はどう感じられたのかはわからない。当時を知る友人から聞いた話では、「せっかく東京に連れて行っていろんな経験をさせたのに、もったいない」と残念がられていたと、ずいぶん後になってから聞いたことがある。
私にとっては関西に戻って頑張ることは、先生の教えを守って実践するためだと思っていたのだが…。

不器用な選択だったかもしれない。真っ正直すぎたかもしれない。先生の立場で考えれば、私の選択は疑問だったのかもしれない。

かなりの遠回りをしたことは間違いない。
でも気がつけば、この歳になってもいつも遠回りをしている自分が、今もいる。


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