2014年1月20日月曜日

12 <第1章 「記憶」のなかの原石> 晴天のヘキレキ

中学一年が終わった後の春休みに、私は得度をした。得度は仏門に入る、僧侶になるための最初の儀式だ。
頭を丸め、祖父が住職をしていた寺で得度式を行った。僧侶では祖父が師匠ということになる。法名(僧名)は「瑞光(ずいこう)」。
 私の通っていた中学では「男子は丸坊主」という校則が無かったので、学校ではけっこう恥ずかしかったが、ピアノを人前で弾くほどのことではなかった。

 なぜ得度をすることになったのか、理由は今もよくわからない。でも私にとっては、さほど不思議なことでもなかったし、得度をすること=寺の跡継ぎという話でもなかったから、寺の孫として生まれたからには当然のことのように思っていた。
 祖父母や両親がどう考えていたかは定かでないが、この得度をきっかけにして、大人たちは跡継ぎをどうするかという話をしたのではないかと考えている。

 石堂丸(いしどうまる)のお話をご存知の方はおわかりだと思うが、もともと高野山というところは、明治時代になるまでは“女人禁制”で、女性は入山を許可されていなかった。もちろん僧侶は妻帯できない。したがって寺は、親から子へという血縁で継がれることが無かったのだ。明治になってからは、次第に血縁で継ぐ寺も増えていったようだが、祖父が住職をしていた成福院はずっと血縁関係ではない僧侶が跡継ぎとなっていた。

 そんなこともあって、寺に慣れ親しんでいたとはいえ、私は跡継ぎになることを具体的に考えたこともなかった。祖父の後はどうなるのだろうと考えたことはあっても、身内で継ぐ準備を誰もしていなかったので、これまでどおり血縁ではない人が継いでいくのだろうと思っていた。
 
 中学三年の夏休みも普段と変わらずに高野山で過ごしていた。夏休みの間に行われた剣道の中学校大阪府大会では、ベスト4に残ることができて、嬉しい夏休みでもあった。
 状況が一変したのは、二学期が始まり十月になった頃だろうか。
 父が突然、「寺を継ぐことにしたからな。だからその後はお前だから、高校は高野山高校に行け」と言ったのだ。私に選択の余地は無かった。

 将来どんな職業に就くかは別としても、可能性が広がる高校に進学しようと勉強をしていた。その必要が無くなるというわけだ。一本のレールが一日にして引かれてしまった。
 自分の気持ちをどう整理すればよいかわからなかった。

いったい何があったのだろう?
父は、四人兄弟の三男だった。一般的には長男が継ぐのが自然だが、当時長男は京都大学の教授をしていたし子供もいなかった。次男は徳島の寺に婿養子として入っていた。歳の離れた末っ子はアメリカ留学から帰国し、エリート社員として社会人のスタートを切った頃だった。

その時、父は42歳。男の大厄の後厄の年齢だ。今の私よりもひとまわり以上若い。
祖父から、どうしても継いでくれと頼まれたのだろうか?その頃は高校の教師をしていたので、他の兄弟よりは継ぎやすい状況の自分が跡継ぎになり、親を安心させたかったのだろうか?
それとも寺を継ぐことに何か希望を見いだそうとしたのだろうか?
あるいは戦争があと少し長く続いていれば、きっと死んでいたはずの自分の人生を、僧侶になり寺を継ぐことでリセットしてみようと考えたのだろうか?
そして自分の後を息子に託すことが、幸せなことだと思ったのだろうか?

釈然としない気持ちもあったが、嫌ではなかった。
「原爆の図」を小学生の頃から見ていた。
毎日休むことなく慰霊と供養の祈りを捧げる、祖父の姿も見ていた。
尊敬していた祖父の思いを継いでいけたら、それはそれで意味があると考え、自分を納得させたのだ。

そして親の言うとおり高野山高校へ進学することになり、将来は寺を継ぐことが私に課せられた役目となった。
寺が家業という意識が無かったから、それまでは自分の歩む道は自分で切り拓くものだと思っていた。あまりに急な展開は、まさに青天のヘキレキだった。


ちなみに僧名の「瑞光」は、目出度い光、吉兆な光という意味があるらしい。余談だが、同じ名前の泡盛もある。

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