2014年1月14日火曜日

10 <第1章 「記憶」のなかの原石> 頭から音譜が消えた日


中学校に入ると、一段と剣道に熱が入るようになる。クラブ活動は、もちろん剣道部だ。
女の子から憧れの視線を浴びるような花形クラブに、興味がなかったといえば嘘になるが、大人ぶって硬派を自認していた。
毎日クラブ活動に汗を流し、週三回は道場に通う。剣道三昧ともいえる生活だが、ピアノの練習も忘れてはいなかった。もちろん新しい友だちにはピアノのことは絶対内緒だ。勉強も頑張っていたが、それは成績が悪いと父の鉄拳が飛ぶからでもあった。

剣道は練習の甲斐あって、中学1年の時には初段を取得する。15歳から初段は受験可能だったので、最年少で取得だった。段位は日本剣道連盟の正式なもので、中体連(中学体育連盟)が認定するものとは違い、大人たちに混じって昇段試験を受けた。実技だけではなく、木刀を使った「形(かた)」や筆記試験まである。
筆記試験は剣道の心得に関する問題などが出題されるが、なかでも「気剣体の一致」という心得があり、その汎用性はとても興味深い。

「気」=心や意志の作用。
「剣」=竹刀の作用。つまり技術的な要素。
「体」=体勢。身体の動き。
その3つが揃わなければ、有効な一打にならないという意味なのだ。
スポーツ全般にも当てはまるだろうし、いろんなジャンルで使えそうな心得と言える。

音楽にも、そのまま当てはまる。多少言い方を変えれば、「気」は同じく心や思いであり意志でもあるが、感性もここに入るだろう。「剣」はやはり音楽面での技術。「体」は作品として構成し、完成させる演奏能力あるいは作曲能力だろうか。
ビジネスマンだったら「気」には企業理念なども入りそうだ。「剣」は個人のスキルだし、商品と考えることもできる。「体」は行動力、営業力と考えれば納得がいく。

話が逸れたが、剣道では自信を持つことが出来た。中学2年の2学期には剣道部のキャプテンになり、クラブを統率していた。ところが、ピアノに関しては恥ずかしさや人前で弾くときの緊張がピークを迎えていたのだ。
毎年1度、必ずピアノの発表会がある。思春期ということもあり、年々人前で弾く時の緊張度は増していったが、中学2年生の時の発表会は忘れられない。

弾いた曲はJ・S・バッハのイタリア協奏曲第1楽章。
同じような音の動きが形を変えながら何度も出てくる。出番が近づくにつれ、極度の緊張状態になっていく。いよいよ自分の出番が来た時には、すでに心の中は不安で一杯だった。

発表会では楽譜を覚えて弾く。
「間違えるんじゃないだろうか」「忘れるかもしれない」「そうなったら恥ずかしい」などと思いながら弾くのだから、その時点で精神的に駄目になっている。
追い打ちをかけるように、さらに足までガクガクしてきたのだ。
響きを豊かにしたり、音を繋ぐ目的でペダルを踏む足が、上下に激しく震えていた。指の動きもだんだん怪しくなる。まさに制御不能の状態で、演奏をしていた。そして案の定、はっと思った瞬間に次に弾くべき音がわからなくなった。

 こうなると状況はさらに悪い方向へと進む。頭の中が真っ白になり、音符はすべて頭の中から消えていた。「こうかな」と思って弾く音がすべて違う。
 虚しい修正作業も効果は無く、何とか最後のフレーズだけ思いだし、それで終わってしまった。途中の数10小節は、結局思い出せず、弾けずじまいに終わったのだ。

 恥ずかしさと悔しさで、すぐにでも会場を後にしたい気持ちだった。
 トラウマにも似た状態になり、必要以上の緊張感から解き放たれたて、ピアノを人前で弾けるようになるまで、それから10年ほどかかることになる。

 

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