2014年3月29日土曜日

23<第2章 遠回りのはじまり> 惚れなきゃダメなんだよ!

 東京では勉強を続けながら、貴重な経験を積むことになる。
 廣瀬先生は、現代音楽の作曲以外に合唱曲やフルート・オーケストラなどの演奏会用の作品のほか、テレビドラマや映画などの音楽も多数手がけ、私が研修員としてお世話になっていた時期が一番多忙な時期でもあった。
作品が産み出される過程や瞬間を目の当たりにする経験は、通常なかなか出来ない。そんな素晴らしい瞬間に立ち会うこともでき、ドラマなどの音楽レコーディングの現場にもアシスタントとして立ち会うことが許され、たくさんの経験の場を与えていただいた。

レコーディングではよく指揮を任されたのだが、最初の頃は不慣れなためスタジオ・ミュージシャンに迷惑をかけることもしばしば。
「そんな指揮じゃ弾けないよ」
「また吹くのかよ!」などと、いじめられることもあったが、そんな事よりも貴重な経験ができることが楽しく、充実した時間でもあった。

今から30年ほど前のレコーディング現場(特にドラマの世界)では、楽曲のテンポをコンピューターや“ドンカマ”と呼ばれる機械で管理することはほとんど無かった。アナログのストップウォッチを見ながら音楽を録音していく。あらかじめ楽譜の数小節ごとに秒数のラップタイムを記入しておき、指定されたテンポで指揮を始め、決められた時間に収まるように微調整しながら音楽を録音していくのだ。

全体が1分や2分程度の長さの楽曲ならまだよいが、3分を超えるものになるとわずかの誤差が積み重なって、規定の長さよりも3秒オーバーとか、2秒足りないといった事態が時々起こる。音楽の最後の余韻が1秒強ぐらいのオーバーならまだ何とかなるのだが、2秒を超える誤差になると、もう一度録音するハメになるのだ。
指揮者に問題があってもう一度演奏しなければならなくなると、当然ミュージシャンは「また吹くのかよ!」となるだ。また限られた時間にたくさんの楽曲を録音しなければいけないので、慣れない頃は必死の状態が続いた。
今考えると「スタジオ・ミュージシャンのみなさん本当にゴメンなさい!」という状態だったと思う。大変だったが、貴重な経験はその後の仕事に大いに役立ったことは言うまでもない。

またこんなことがあった。
東京生活1年目のある時、初めてNHKテレビの番組音楽を担当させてもらうことになった。もちろんギャラをいただいて作曲する仕事としても初めてで、言ってみればデビューともいえる。
それは“ことりたちの四季”という番組で、季節の移り変わりの中で生きていく小鳥たちの様子を伝える子供向けの内容だった。数日間懸命にピアノに向かうのだが、思うように曲が書けない。いくら頑張っても納得できる形にならない。そんなふがいなさを感じながら悶々としていた。
正確に言えば曲はいくらでも書けるのだが、何か違う気がしていつまでたっても作業が終わらないのだ。もちろん徹夜、青息吐息の状態が延々と続く。
録音時刻がどんどん近づき夜も明けてきた時には、もう顔面蒼白。何とか書き終えてスタジオに入った。録音は無事終了したが、自分が情けなかったし悔しくもあった。

学生時代に学んだことが、そのままでは何も社会で通用しないことを思い知った。
音楽が必要とされる現場で、作品を完成させることの難しさを身をもって体験した最初の出来事。とても大きな意味を持つ日となる。
実は私にとっては録音が終わった後に、廣瀬先生と交わした会話が重要な意味を持っているのだ。

当日は私の録音の他に、廣瀬先生も別の録音があったため、一緒にNHKのスタジオにいた。2人分の録音がすべて終わり、帰りのタクシーの中で先生からこう質問された。
「初めて仕事として作曲してみて、どうだった?」
私は、頑張っても思うように作曲できなかったこと、大学で学んだ技術的な部分だけでは社会に何も通用しないと痛感したことなど正直に告白した。
話を聞き終えると同時に、先生は優しい表情を浮かべて言った。

「惚れなきゃダメなんだよ!」

 その言葉はとても深く、重く、また大きな課題として私の心に響いた。
 自分なりにその言葉の意味を少し理解できるようになれたと実感し、実践できるようになるまでに、それから十年近い時間が必要だった。
 
五線紙の向こう側にいるスタッフ、演奏家、そして音楽を必要としている対象、それを見たり聴いたりする人たちなどすべてを生かすこと。そして表現者として心底愛情を注ぐことの大切さと、社会との関わり、人と人との関わりの中でこそ音楽が生まれてくることを教えて下さった言葉だと思っている。
すべてが自分の作品だ。どんな仕事であれ、自分が関わる意味合いを考え、ひとつひとつを大切にしなければいけないという戒めの言葉でもある。

最近、とある音楽の事件で、ゴーストの先生の素晴らしさを論評する方々のコメントの中に、いわゆる劇伴といわれるドラマ音楽や様々な商業音楽、調性によって書かれた曲などは、クラシックの訓練をきちんと受けた人間であれば、いとも簡単で余技で出来ることのように言い放つ方が少なくないが、はたして本当にそうなのだろうか。
少なくとも、廣瀬先生は余技として商業音楽に関わっていなかったし、そのような姿勢で上から目線で仕事をすることを、極端に嫌われていたように思う。もちろんその先生の薫陶を受け、その現場をつぶさに見てきた私としても、同じ感覚でいる。
学生の頃、「私プロレスの味方です」という内容を私に話して下さった時、ジャンルに一流二流があるのではなく、そのジャンルの中で一流二流があるんだよとよく話してくださっていた。

「惚れなきゃダメなんだよ!」
平成20年に廣瀬先生は亡くなられたが、今でもこの言葉は忘れられない。
そして今でも時々自分に問いかけている。

「ちゃんと惚れて、仕事をしているか?」と。




2014年3月28日金曜日

22<第2章 遠回りのはじまり> 基本をイチからやり直し

 私が大学3年になる時、作曲専攻の主任教授が定年退官となり、その当時注目されていた作曲家が新しく教授として赴任された。
廣瀬量平先生だ。
現代音楽の専門雑誌で名前は知っていたが、まさか自分たちの教授になるとは夢にも思っていなかったので正直驚いた。その廣瀬先生との出会いが、現在の私を形づくる大きなきっかけとなり、多大な影響を受けることになっていく。

最初に課題として与えられたテーマは「基礎を徹底的にやる」ということだった。
受験勉強から大学2年までで習得していたはずの基本中の基本すべてを、さらに高度な課題を通して、すべてイチからやり直すのだ。それは「芸術家であるまえに職人であれ」という先生の言葉にも象徴されていた。
私はなぜかその「やり直し」が気に入り、新たな教育システムにどっぷり浸ることを選んだ。教授が替わった直後でもあり、どの程度の意識で取り組むかは学生ひとりひとりの自覚に任されていたように思う。

「和声法」「対位法」といった基礎の他に、楽曲分析も授業の大切な要素だった。音の長さ、高さ、音域、モチーフがどう展開されているか、和音、強弱、音色など、様々な音楽の構成要素を客観的に分析し、音楽の構成とはどういうものかを、徹底的に叩き込まれた。
すべてが新鮮だった。専門的に作曲を学ぶことの面白さにようやく気づいたのだ。

基礎という大切な土台を構築していくことと並行して、自分の足もとをきちんと見つめること、社会を見つめること、そして自分が表現するべきことは何なのかを考えることの大切さを学んだ。     
日常何気なく使っている言葉に対しても、自分自身の中で本当に根拠があるのか、また本当に身についた言葉として話したり書いたりしているかどうかを、非常にシビアに判断される。
たとえば映画を見た感想を、何気なく「感動しました」「良かったです」と言ったとする。先生の口からは必ず間髪入れずに「どういうところに感動した?」「どういうところが良いと思った?」という質問が飛び出す。
そんな会話を幾度となく繰り返しながら、漠然と「感動した」「良かった」ではなく、表現者として自分のアンテナがどういうものに対して、どう反応したのかをきちんと把握することの大切さを学んでいった。
基礎をやり直したことは、自分自身にとって過信ではなく、とても大きな自信になった。

そして大学4年も中盤にさしかかった頃、ごく自然に「廣瀬先生のもとで作曲の勉強をもう一年やりたい」と思うようになっていく。大学に残る方法は無いものかと考えていた私は、妙案を思いついた。
コントラバスとオーケストラにハマっていた私は、実は毎年出席日数が足りずに「ドイツ語」の単位を落とし続けていた。つまり試験を受ける資格がなかったわけだ。卒業するなら単位を取得しなければならない。
「そうだ。これまで同様、単位を落とせばよいのだ」と気がついたのは、当然といえば当然だった。

ただひとつだけ大きな問題があった。
作曲の単位をすべて取ってしまうと、肝心の専攻の授業が受けられない。
「もう1年、先生のもとで勉強させて下さい」と頼み込み、「作品発表」という単位をあえて落とす、つまり発表しないことを黙認してもらったのだ。
そして“確信犯”として、大学5年生を迎えることになる。
今だからこそ言える留年の秘密だ。もしその当時から母校に大学院が設置されていれば、また違った展開になっていたかもしれないが…。

5年生”はひたすら作曲三昧。あっという間に学生生活も終盤に入り、またしても私の心に変なささやきが聞こえ始める。
「卒業してどうするの?もっと作曲にハマれば?」
音大生の場合、学校の先生になるかオーケストラに入団する以外は、卒業したら就職するという世間一般の図式に当てはまらない人間が多い。その当時はそうだった。私もご他聞にもれず、何も仕事に結びつく活動はしていなかった。

あれこれ考えた私は、先生にこんな相談をした。
「美学を学べる大学院を受けてみようと思うのですが、どうしたらよいでしょうか」
世間知らずもはなはだしいとは、この事だ。大学院を受ける何の勉強もしていないのに、受けてみたいとは…。
おそらく先生はあきれていたと思うのだが、代案を提示してくれた。
「文化庁の芸術家研修員制度で、国内研修員というものがあって、ちょうど今その選考のための募集を行っているから、書類を出しなさい」
廣瀬先生の取り計らいもきっとあったと思う。音楽や美術、舞踊やバレエなど様々な分野の応募者の中から、運よくその国内研修員に選ばれることになる。

1980年、初めての東京生活が始まった。
研修先は「日本現代音楽協会」という団体で、担当は廣瀬先生だ。
つまり私にとっては、大学院に行くようなものだった。

弟子の数だけ、教育者としての廣瀬先生像があると思う。
徹底した基礎の習得をベースに、ひとりひとりを暖かく見守り、最大限生かすため、自分自身を見つめることを教え、社会を見つめることを教えた先生の熱意は並大抵のものではない。

僧侶の道を外れ、寺子屋のような大学キャンパスで作曲や音楽を基礎から学んだ。コントラバスという楽器の魔力にとりつかれ、オーケストラの経験もした。実は、副科管楽器はオーボエにしたのだが、それにもかなりハマっていた。
遠回りだったかもしれないが、有意義な時間だった。

そして新たに始まる東京での時間。
それは内弟子のような形での音楽修行そのものでもあった。

研修員の期間は1年だが、その期間も含めて丸3年という濃密で凝縮された時間を廣瀬先生の元で過ごすことになる。

2014年2月27日木曜日

21<第2章 遠回りのはじまり> 怪我の功名?

 「オーケストラ」の授業を受けられるかどうかの瀬戸際となる、副科コントラバスの学年末試験では、ちょっとしたハプニングがあった。
演奏しようと舞台に横たわっているコントラバスに近寄り、しゃがみこんだ時のこと、一瞬右膝に軽い痛みが走ったのだ。それは楽器底部から突き出ている「エンド・ピン」という、床に固定する金属製の支柱にぶつかった痛みだった。

緊張のあまりか、気にせずにそのまま楽器を手に取り演奏していると、試験官の先生方が何やら笑いを押し殺したような表情で私を見ている。状況がよくわからないまま無事演奏を終えると、先生方からは大きな拍手とともに何と爆笑が…。
ひとりの先生が一言。
「おまえ、ズボンが破れて血が出ているぞ!オーケストラの授業は受けさせてやるから、消毒してこい!」

そう言われてはじめて気がついた。
ぶつかった拍子にズボンが破け、エンド・ピンの先端が膝に刺さって、少しばかり怪我をしていたのだ。そんな状態でもお構いなしに必死で弾いていた私の姿が滑稽でもあったので、先生方は笑いをこらえていたらしい。
練習の成果なのか“怪我の功名?”なのかはわからないが、2年生から念願だったオーケストラの授業を受けられるようになり、私はどんどんコントラバスの魔力にハマっていく。

オーケストラの授業は、あっという間に私を魅了していった。
子供の頃からピアノを習っていたとはいえ、ひとりで孤独に練習するのと、大勢でひとつの音楽を創りあげていくオーケストラとでは、充実感がまったく違っていたからだ。そんなアンサンブルの経験は、以後の私の音楽に大きな影響を与えることになる。
来る日も来る日もコントラバスとオーケストラに没頭する毎日が続く。もちろん本来の作曲専攻の勉強はしていたが、気分はまさに「弦楽専攻」だった。

1年生の頃から親しい友人たちが弦楽専攻生だった事もあり、遊ぶのも呑みにいくのも弦楽器を中心とした連中と一緒。そんな彼らと、月に一度は理由が無くても必ず集まり、酒をヘベレケになるまで呑む「月例会」を結成。みんなお金は無いはずなのに、呑むお金だけはどういうわけかあったようだ。
学園祭になれば弦楽専攻の仲間と「串かつ屋」を開店し、髪の毛や服にまとわりつく油の強烈な匂いに軽い目眩を感じながらも、「へい、らっしゃい!」と威勢よく毎日“串かつ”を揚げていた。
学園祭最終日に行われる「ダンスパーティー」(今となっては古色蒼然とした名前だが)では、学生バンドの一員としてエレキベースを担当し、学生たちの馬鹿騒ぎをサポートしていた。そんな楽しみもコントラバスに出会ったからこそのものだった。

 ところが3年生になったある日、意外なことから自分の気持ちの中に大きな変化が訪れたのだ。
そのきっかけは、コントラバスのレッスンを受けていた先生からの何げない言葉だった。「上田くん、九州交響楽団でコントラバス奏者を募集しているけど、入団試験を受けてみる?」
つまりプロのオーケストラの入団試験を受けないか、というお誘いなのだ。
九州交響楽団は博多にある。母のふるさとだ。興味はとてもあった。
自分で言うのもおこがましいが、「好きこそものの上手なれ」の例えのとおり、急速に上達したのも事実だった。弦楽専攻の人たちからアンサンブルに誘ってもらい、シューベルトのピアノ五重奏曲「鱒」を演奏して学内のコンサートにも出演したり、同学年の弦楽アンサンブルでコントラバスを弾いていていたほどだ。
でも入団試験を受けるだけの実力が本当にあったのかどうか、その先生がどの程度本気だったのかはわからない。

確かに少し迷ったのも事実だ。
ただ、さすがにコントラバスにハマっていた私ですら我にかえり、「自分の専攻はなんだっけ」と改めて考えさせられることになる。

作曲の教授も定年退官で新しい先生に替わっていた。作曲の面白さに改めて気づき、本来の専攻に力を入れなければいけない時期だったのだ。

私はもちろん入団試験を受けなかった。
オーケストラの授業は先生方の理解もあり、4年生の終わりまで続けて受講した。
それは特別な配慮だとも思っていたので、コントラバスのレッスンも受け続け、すでに単位取得済にも関わらず、学年末試験は必ず受けるということを自分の課題にしていた。




20<第2章 遠回りのはじまり> 魅力と魔力

 私が通うことになった京都市立芸大の音楽学部は、当時岡崎という場所にあり、平安神宮の神苑、つまり庭園に隣接していた。
 各学年の定員は60名。その60人の枠の中に作曲をはじめ、各専攻生がいる。全学年合わせても240名。とても小さな学部だ。
 キャンパスというには少々古ぼけていたが、狭いながらも風情は満点。大学のキャンパスというよりは、寺子屋といったほうが近いかもしれない。(写真は当時のままの姿で残っている校門横の守衛室跡)
大学の敷地全体は終戦直後まで武道専門学校があった場所であり、武徳殿という武道場や弓道場などが残されていた。その外観がお寺のようだったので、観光シーズンともなれば外国人がよく間違えてキャンパスに入って来る。学内にはしだれ桜があり、春には花見まで出来る。秋になると“いちょう”の木の下で銀杏を拾う光景まで見られた。
 
 西洋のクラシック音楽を学ぶ大学とは思えない環境だが、それがまた日本的でもあり、京都らしくて気に入っていた。平安神宮の庭園との境には、申し訳程度に金網があるのだが、ボロボロに朽ち果てている箇所が数カ所有り、いわばそこが学生にとっては庭園への無料の入り口でもあった。
 数が少ない練習室は、どこも隣の音が筒抜け。ある時プレハブの練習室でピアノの練習をしていたら、隣の部屋でアンサンブルの練習をしていたピアノ科の先輩が入ってくるなり楽譜を指さし、
「上田くん、さっきからここの臨時記号をずっと付け忘れているよ!」
と注意してくれたりする。よほど気になったんだろう。

そんな音の入り交じる練習室のすさまじい環境にも関わらず、みんなその場所を奪い合うように練習していたことを思い出す。
 特筆すべきは、春のゴールデンウィークになると、その前後を含めた10日間ほどが休校になったことだろう。理由は毎年必ずその時期に全国武道大会が開催され、練習室をはじめ学内のほとんどの部屋が関係者の控え室などに使用されるためだった。
何とも大らかな時代。そして私にとっては何もかもが魅力に満ちた空間だった。
かつての剣道少年は、なぜか剣道を再開することもなく、音楽に没頭していく。

音楽大学では、「副科」といって専攻以外に履修する科目がある。ピアノと声楽だけが必修という専攻が多い中で、「作曲科」はそれに加えて弦楽器、管楽器、指揮法なども必修科目だ。
私は大学1年で弦楽器の単位をまず取った。選んだ楽器はコントラバス。オーケストラでは一番低音を支える楽器でもある。ヴァイオリンを選ぶ人が多い中、私はどこか思考が変わっていたのかもしれない。

鍵盤楽器以外の本格的な楽器に初めて触れられる機会。もう楽しくて仕方がない。毎日コントラバスの練習ばかり。専攻が「作曲」であることを忘れているかのような毎日を送っていた。
担当の先生も、専攻生と同じだけの時間を私のレッスンに充ててくださった。

コントラバスの魅力は、私を虜にした。
魅力と言うよりも魔力と言ったほうが近いかもしれない。完全にハマっていた。ひたすら練習を続け、ある日「オーケストラ」の授業を担当する先生に相談した。
2年生になったらオーケストラの授業を受けさせて下さい!」

なんという無謀な相談だろう。
本来は弦、管、打楽器の専攻生しか受講できない授業。さすがに前例の無い、前代未聞の相談なのは明白だ。
いくら自由な校風と言っても、今の時代ならそんな希望は受付けてもらえないはず。
ところが先生の回答は、
「学年末のコントラバスの試験で、他の試験教官全員のお墨付きをもらえたら受けさせてやる」
というものだった。
もう有頂天だ。チャンスがあるのだ。ますますコントラバス専攻のような生活に浸ることになっていく。
 僕にとっては、魅力と魔力に満ちた時間の始まりだった。



2014年2月11日火曜日

19 <第2章 遠回りのはじまり> サクラは咲くか?

入試要項の発表は、音大の受験生にとって重要な意味を持つ。実技試験の課題曲、選択曲が発表されるからだ。
私が受験した頃の京都市立芸大では、作曲専攻に課される副科ピアノが例年かなり難しかったし、合否判定のなかでも専門実技と同程度重視されるという話だった。
副科とは専門以外の科目という意味だが、私が受験する年の作曲専攻に与えられた課題は、リスト作曲の「二つの演奏会用練習曲」から「森のささやき」という曲だった。

リストの曲は「ラ・カンパネラ」や「愛の夢」などが広く知られている。ピアニストでもあり、超絶的な技巧の持ち主だった彼のピアノ曲は、群を抜いて難易度が高い。「ピアノの魔術師」と呼ばれていたほどだから、簡単に弾きこなせる曲ではない。
まして私はピアノ科志望の人間ではないし、それなりに上達はしていたが、リストの曲を弾きこなせるほどではなかった。弾いた経験も皆無だ。
課題曲を見て愕然としたことは、言うまでもない。

「ピアノの実技がネックになるかもしれない」と本当に思った。
専門の実技に自信があったわけではない。ただ作曲の実技課題を攻略するには何が必要で、どこまでのレベルを入試で要求されるかは概ね把握できていた。
だから専門実技で落とされるならまだ納得がいくと思えた。ところがピアノの課題曲は想像をはるかに超えた難曲。それが一番の不安材料だったのだ。

要項の発表後から、それまで作曲関連の実技習得に充てていた4時間とほぼ同じ時間をピアノの練習に費やした。とにかく弾くしかない。少しずつ形にして、入試に間に合わせるしか方法がないのだ。
「父の家出」騒動の間も、もちろん練習を休むことはできない。

年が明け、入試も二ヶ月後ぐらいに迫ってきた頃になると、不思議に見通しが立ち始める。手前味噌ながら自分でもピアノが飛躍的に上達したのでは?と思える状態になっていく。家の近所のおばさんからも、「ピアノが上手になったねぇ。レコードの音が聞こえてきたのかと思ったわ」と言われ、根っからのポジティブ人間である私は、お世辞を真に受けてさらに練習に拍車がかかっていく。

高校の音楽のM先生に頼み込んで、入試前の約2ヶ月は音楽室のグランドピアノを授業が始まる前の時間帯に1時間ほど貸してもらうことにも成功する。自宅のピアノはアップライトという縦型だが、試験はグランドピアノ。微妙な違いもあり、出来るだけ慣れておく必要があったので、有難かった。
その音楽の先生まで試験直前の1ヶ月ほどは、初見視唱やコールユーブンゲンといった、歌をともなう課題のチェックを手伝って下さった。當麻先生はじめ、音楽に関係するまわりの先生方が懸命にサポートして下さったことは、大きな心の支えでもあった。

3月初旬、いよいよ入試が始まった。
作曲の実技試験は2日間。和声法という理論的な試験が初日。与えられたモチーフを元に、何も楽器を使わずにピアノ曲を作曲する試験が翌日だったように記憶している。どちらもその時までに蓄えた力を、ありのまま出す以外は考えなかった。それでダメなら力不足以外のなにものでもない。

例年、作曲専攻は15人程度が受験し3人程度しか合格しない。ところがこの年に作曲専攻を受験した人数は20名を超えていて、倍率で言えば8倍程度の予想だった。
しかも他の人たちは少なくとも3年近く作曲の受験勉強をして、試験に臨んでいる。私はその半分の時間しか勉強していない。
でも受験すると決めて準備をしてきた以上、そんなことは言い訳にすらならないことが、よくわかっていた。
専門実技が終わり、合格できる可能性は自分の判断では40パーセント。残りの実技試験でその確率がさらに下がらないように頑張るだけだった。

ピアノ、聴音、新曲視唱、コールユーブンゲン、楽典といった実技や筆記試験と、学科試験などが数日間にわって行われた。
一番不安だったピアノも、受験できるレベルの演奏に何とかこぎ着けていたし、試験でも無事に弾き終えた。当然ながら、最終的には作曲の専門実技の成績によって合否が決まる。

合格発表までの約一週間を、どう過ごしていたのかまったく覚えていない。空白の時間だ。
そして発表の日がついに来た。

合格者の受験番号が張り出される瞬間は見たくなかった。ダメだろうと思っていたので、急いで見に行く必要も無かった。
大学の掲示板の前に到着したときには、多くの受験生はすでに帰った後で、数人がいる程度だった。
そして受験票の番号を確かめながら、合格者の番号と照らし合わせていく。

「あった!」
「自分の番号があった!」

嬉しさと、気恥ずかしさのような気持ちが押し寄せて来た。自分で顔の表情が次第にほころんでいくのがわかる。
でも「やっぱり見間違えたのではないかな?」と不安になり、何度も確認した。
  
音楽と無縁の家庭に生まれた私。
でもオルガン、ハーモニカ、木琴、ピアノ、歌、エレクトーンといったものを習わせてもらえた。続けさせてくれた親に心から感謝した。
父に「一度だけ」認めてもらった機会を、何とか生かすことができて、安堵した。

寺を継ぐ道を自分で外れてしまった私が、音楽を専門に学ぶ大学に進学することになった瞬間だ。それは自分が進むべき道に初めて光を感じた日でもある。
もちろんまだ何も始まっていない。ただ、音楽を専門に学ぶ入口に立っただけ。すべては、これからだ。その後に待ち構えている様々な出来事、そしてその過程で表現していく者としての自分が形成されていくことなど、想像もしていなかった。

祝、サクラ サク!


2014年2月8日土曜日

18 <第2章 遠回りのはじまり> 父の家出


  受験のためにピアノを教えていただくことになった當麻先生のレッスンは、それまで受けてきたものとはずいぶん違っていた。中学生までのレッスンとは、目的も違っていたから当然だが、新鮮だった。
 
 演奏するときの音色や表現、曲の構成の捉え方など、より深いところまで意識しながら弾かなければダメだということに気づかされたのだ。楽譜に書いてあるとおりに間違わずに弾くだけでは何の意味も無いことを痛感させられ、表現することがどういうことかを、少しずつ学ばせていただいた。演奏や音楽の解釈に関する本も、充分理解できないこともたくさんあったが、相当数読んだ記憶がある。

最初に与えられた曲は、バッハの「二声のインベンション」とカバレフスキーの「ソナチネ」だったと思う。バッハの方は、すでに三声のインベンションも含め小学校から中学の時期に一通りの練習は終わっていたので、復習程度の感覚だった。カバレフスキーは初めてだったが、楽譜から見る限りは、それほど難しくないように思えた。
実際には、そんな甘いレッスンではなかったことは、言うまでもない。新しい発見と、音楽に対する新鮮な驚きの連続は、私の意欲をどんどんかきたてていった。
和声法や作曲といった専門科目のレッスンも、ハイペースかつ着実な習得が絶対条件だったが、何が何でも合格しなければという意識で、ひたすら毎日頑張っていた。

音楽大学を目標にした特殊な受験勉強を始め、季節の移ろいとは無縁のような生活を送って一年。私の大好きな季節になっていた。
中学生まで遊んでいた里山には行かなくなっていたが、家の近くではいつもどおりに秋の虫が鳴き始め、どこからともなく流れてくるキンモクセイの淡い香りが心地よい季節でもある。受験勉強の緊張感から、ほんの一瞬でも解放されるような気持ちになるから不思議だ。

私は秋の空気に子供の頃から思い入れがある。
すこしひんやりし始めた空気から伝わってくる何とも言えない匂いは、大切な記憶でもある。
そんな心地よい季節も冬に少し近づいた頃、我が家にまた騒動が持ちあがった。10月も半ばを過ぎた頃だったように思う。

父が家出をしたのだ。

寺を継がないという私の決断をきっかけに、その頃には父もまた最終的に寺を継がず大阪に戻って教師生活を送っていた。何が母との間であったのかは知らない。母は父が浮気をしていると思い込んでいたので、荒れていた。
私はというと、意外に冷静だった。
真偽の程は今もわからない。
ただ昔から激しい夫婦げんかは日常茶飯事だったし、高野山に家族で移り住む話が持ち上がった頃から、父と母の関係にも何かしら節目が来ていたようにも思う。

父の家出から数週間後に父から連絡があり、父の住む新しく借りた家に来るように言われた。
母は「女の人がいる形跡がないか、ちゃんと見てきて!」と言う。高校生の私にわかるはずもないのだが、母は真剣そのもの。
母の気持ちを考えれば当たり前なのだが、原因がわからない私は「はいはい」と気のない返事をするしかない。家を出発し父のところに向かった。

父の家に着くと、特に気まずそうな様子もなく私を部屋に通した。
何か話を始めるのかと思っていたのだが、父は分厚い手紙を差し出して家に帰ってから読むように言っただけで、しばらく無言の時間が過ぎていく。
近所のグラウンドから聞こえてくる少年野球のかけ声と乾いた打球音が、その時間を長く感じさせた。

結局その日は、父と食事をして戻ることになる。
父からの手紙は、母には内緒にしていた。母は家の中の様子がどうだったか聞きたがる。父に女性がいるとは思えなかったので、
「一人で住んでいると思うよ」としか言いようがなかった。
間が抜けた返事だったと今は思うが、当時は女性の勘の鋭さを知りえる年齢でもなかったから、どうしようもない。
母は苛立ちばかりが募ったことだろう。でも私に出来ることと言えば、「万が一離婚になったらお母さんを選ぶから」と母に伝えてあげるだけで精一杯だった。

父が私に手渡した手紙には、母とのなれそめ、私が生まれる前に一度別れる決心をして大阪駅まで送っていったこと、でもホームで電車を待つ母の後ろ姿を見て、もう一度やり直そうと思ったこと、そして私が生まれたことなどが綴られていた。そして父なりの不満がいくつか書かれていた。
判断は出来なかった。
父と母が決めることだと思っていたし、何か言える立場でもない。何が歯車を狂わせ、どうすれば良いのか高校生の私には皆目見当も付かない。
でもやはり母が可哀想だった。

時間が過ぎていく。
入試はどんどん近づいてくる。
12月に入りクリスマスの頃だろうか。
受験のことで頭がいっぱいだったが、やはり父と母は一緒にいるのが自然だと思った私は、母と話をした。
父を呼び戻してくると提案した。
怒らずに父を迎えて欲しいとも頼んだ。そして母も了解した。

父に連絡を取り、一人で会いに出かけた。
「一緒に住み慣れた香里団地で年を越そう。お正月を迎えよう」と伝えた。母も普段どおり迎えてくれるだろうことも…。

数日後、大晦日に父は戻ってきた。
母は生まれ故郷・博多の味「がめ煮」を作って待っていた。
久しぶりに三人で食卓を囲む。
なんだかとても嬉しい夜だった。
めずらしく母も少しお酒を呑んだ。私も雰囲気で少し呑ませてもらった。

ほんの2ヶ月ほどの「父の家出」は、こうして幕を閉じた。
ふと気がつくと、それ以後の父と母はあまり大きな夫婦げんかをしなくなっていたように思う。

秋の空気は、そんな記憶への扉でもある。



2014年2月7日金曜日

17 <第2章 遠回りのはじまり> 一度だけ与えてもらえた機会

高校2年生の夏休みのある日、少し不機嫌な父から
「進路をどうするんだ」と言われた。
寺を継がない選択をしながら、進路をどうするかまだ決めていない私に業を煮やしていたのだと思う。
反対されることが目に見えていたので、「音楽の道に進みたい」とは父に言えず、母親にまず自分の気持ちを伝えた。驚きながらも、やはり母親は有難い。父に私の気持ちを伝えてくれた。
おそらく夫婦で大喧嘩をしたはずだが、父は「一校のみ一度だけ。一番学費が安い大学を受験しろ」という条件付きで音楽大学の受験を許してくれた。
その時点では、エレクトーンに携わる仕事がしたいという漠然とした目標だった。その仕事をする上でも役立ち、幅広く音楽を学びたい気持ちもあって、「作曲科」を受験することにした。

下宿などの余分な費用もかからず、学費が最も安い音楽大学…。
いろいろ探した結果、京都市立芸術大学音楽学部を受験することに決めた。
その当時の学費は東京藝大よりも安く、京都市内に住民票を置いていれば年額2万4千円!約40年前のこととはいえ、月額に換算すると2千円という信じられない金額だった。京都市外からの学生でも年額3万円だ。国立大学が3万6千円の時代、それよりも安い。
選択肢が一つしかなかったことは、言うまでもない。

どこの音楽系大学でも「作曲科」を受験するためには、「和声法」や「対位法」という理論や「作曲」そのものの実技レッスンをはじめ、ピアノ実技、聴音、初見視唱、コールユーブンゲン、楽典といったいくつかの専門的な勉強が必要になる。つまりその勉強をするためにお金も必要になる。
京都芸大のOBでもあった當麻先生に相談して、作曲の先生を紹介していただき、ピアノのレッスンは當麻先生にお願いすることにした。
作曲の先生はY先生。合唱曲を中心に作曲活動をされ、京都芸大で非常勤講師もなさっていた。

通常はもっと早い時期にそれぞれのレッスンを個別に受けて準備するのが一般的だ。でも私が受験を決めたのは高校2年の夏休みが終わる頃。Y先生からは、
「一浪は覚悟しておいて下さい」
と言われたが、私に与えられたチャンスは父からの条件であるたった「一度」だけ。しかも併願は許されない。
とにかく必死だった。早くから準備をしている人たちの二倍以上のスピードで、受験に必要なレベルまで到達する必要があった。やるしかなかった。
親の負担を考えると、その他はとりあえず自分で勉強し、時々當麻先生にチェックしていただくことにした。

聴音は旋律や和音を決められた回数聴き、その間に書き取る試験だ。
まず問題集を買ってきて、決められたやり方でピアノを弾いて、片っ端からカセットテープに録音していく。自分で弾いて録音するわけだから、たくさん録音しておかないと記憶に残ってしまう。それを避ける工夫が必要だった。
聴音の練習に使う五線紙は市販のものを使うともったいないので、安いわら半紙を買ってきて適度な大きさに切り分け、五線をボールペンで描いた。その作業は、受験で必要のない科目の授業のときに内職としてやっていた。担当の先生にはお見通しだが、大目に見ていてくれた。
数秒間楽譜を見ただけで、すぐに伴奏無しで歌う初見視唱や、音程・リズムの訓練を主な目的とし、楽譜を読む能力を歌いながら養う曲集「コールユーブンゲン」も、しばらくは独習していた。
今は独習用の教材が数多く販売されているが、その頃は数も少なかったし、自分で工夫して独習する方が効果的だとも思っていた。

 「試験に落ちたらどうしよう」という不安よりも、「受からないといけない」プレッシャーは日増しに強くなっていく。でも自分で決めた目標に向かって頑張ることができる喜びは、何ものにも代え難かった。制約があるとはいえ、少なくとも受験勉強をするための費用を出してもらえたことは、心から親に感謝している。
 ネガティブに考えてもしかたがない。「不器用でも工夫して努力すれば何とかなるさ」と、いたってポジティブな私。
それと同時に、万が一受験に失敗した時は、親の反対を押し切ってでも東京に行くこと、アルバイトしながら勉強を続けること、そして目標を東京藝大にすることを密かに決めていた。
 無謀で世間知らずな話だが、本気で考えていたから恐ろしい。