2014年1月8日水曜日

06 <第1章 「記憶」のなかの原石> 一人っ子の憂鬱


私は一人っ子だ。
そのことがずっと嫌だった。というよりも「一人っ子だから…」「一人っ子は…」と言われるのが、とても嫌だった。実は今でも嫌だったりする。
 「一人っ子だから、何でも買ってもらえていいわね?」
 「一人っ子だから、どうせ甘やかされているんでしょ?」
 「一人っ子は兄弟げんかを知らないから、社会性に欠けるんじゃないの?」
 「一人っ子は、わがままだからね」

 半ば憶測で周りの人たちはいろいろ言うものだ。究極は「一人っ子はダメなのよ」とまで言われたこともある。挙げ句の果ては、父までも「一人っ子だから…」などと、怒鳴ったりする。
自ら望んで一人っ子になったわけではないのに、まるで一人っ子が罪悪のような感じだ。特に私が子供の頃は、一人っ子の割合がとても少なかったから、完全に弱者だった。
兄弟で切磋琢磨することがないから、たくましく生きて欲しいと親は願うのだろう。だから実際は、兄弟がいる家庭よりも意外に躾など厳しかったりする。親の期待が加わればなおさらのことだ。

豊かではなかったけれど、一人っ子だから私一人にお金をかけてもらえた。そのことにはとても感謝している。でも何でも買ってもらえたわけではない。あたりまえの話だ。
親の愛情が一人に集中するから、周りからは甘やかしているように見えるのも無理はない。でも私は「あれ買って!」と駄々をこねたことは一度もない。そんなことが許される家庭ではなかった。
兄弟でおかずを取り合う経験も当然無い。だからご飯を食べるスピードが子供の頃は遅かった。そのことで、ずいぶん父に怒られた。
兄弟げんかを知らない分、父にはずいぶん殴られた。ある時は夫婦げんかの“とばっちり”を受け、自宅の階段上から「獅子は我が子を千仞(せんじん)の谷から突き落とすんだ!」と言いながら本当に蹴り落とされたこともある。階段下まで転がり落ちた。壁に足をぶつけて生爪がはがれた。今となっては笑い話だが、その時はあまりの痛さに大泣きした。

そんなに一人っ子はダメなのだろうか?
兄弟げんかをすれば社会性が本当に身につくのだろうか?
一人っ子は必ず、わがままなのだろうか?

一時期は劣等感に苛まれた時もあるが、一人っ子も捨てたものではないと思ったりもする。

大人との生活が中心になるから、大人が考えていることを察する能力が小さい頃から発達する。
大人を基準に考えることが多いので、精神的には早熟だったりする。
一概には言えないが、おもちゃを取り合ったりする経験がないから、独占欲があまりない。友達に平気で貸してあげたりする寛容さを持ち合わせている。
そして独立心や責任感が人一倍強いのも、意外に一人っ子だったりする。

そんな私にも兄がいた。この世に無事生まれてきていれば、たぶん2人の兄がいたはずだ。考え方を変えれば、2人の兄がいたら父の経済状態から考えて、私という人間は存在していなかったかもしれない。
小学校低学年の頃だろうか、母になぜ自分には兄弟がいないのか聞いたことがある。母は返答に困ったはずだが、私の記憶では少なくとも2度男の子を流産したことを教えてくれた。そして奇跡的に私が無事生まれたこと、流産の影響でもう子供を産めないことも、きちんと話してくれた。
母の悲しさに触れた気がした。なぜ兄弟がいないのかを、二度と聞くことはなかった。

これも大切な記憶のひとつだ。
その母は癌で、私が30歳のとき、59歳で亡くなった。


2014年1月6日月曜日

05 <第1章 「記憶」のなかの原石> 微かな振動の記憶


小学校二年生の時だっただろうか。突然ピアノが我が家にやってきた。
ピアノは縦型でいわゆるアップライト型というものだ。親がどこでどう楽器を手配し、先生を誰に紹介してもらったのかは、わからない。
オルガンのアクロバティックな練習にも、限界が来ていた頃だ。
私が望んだのだろうか?
いや、おそらく両親が情操教育の一環と考えて、きちんとピアノを習わせようとしたのだろうと思う。何度も夫婦げんかをした結果としての結論だったのかもしれない。

香里団地の我が家にピアノを運び入れるのは、とても大変な作業だった。
二階部分に置くしかないのだが、階段が狭いことと楽器の向きを変えるスペースが取れないことが理由で、クレーンで持ち上げて二階のベランダから入れた。
まだまだピアノが普及していない時代。
ましてや男の子の家にピアノがやってきたわけだから、ご近所さんも見物に来るやら大騒ぎだった。

やっとのことでピアノ搬入の一大イベントも終わり、母が「弾いてみれば」といいながら黒塗りの蓋を開けてくれた。 そこには真新しい白い鍵盤と黒い鍵盤が並び、輝いていた。
嬉しさと気恥ずかしさが入り混じった気持ちで、そっとひとつの鍵盤を押さえると、聴こえてきたのは紛れもなくオルガンとは違う澄んだ音だった。

初めて間近で聞くピアノの音。
実に新鮮な響きだった。
指先にかすかな振動をともなって伝わったその音は、子供の私を感動させるには充分だった。

ピアノは弦をハンマーといわれる部品で叩くことで音が出る。つまりその時感じた微かな振動は、ハンマーが弦を叩くときのものなのだ。
作曲の仕事をするようになって、あの時の音と共通するものがあることに気がついた。
それは例外なく誰もが最初に聴く音。母親の胎内にいるときに聴いている子宮の中の音だ。胎児にとっては音楽といっても良いかもしれない。

胎内の音のほとんどは、血液などが体内を流れる時に発する「ザー」という“ホワイト・ノイズ”に近いものだ。これは海辺で聴こえる波の音にも、川の流れの音にも似ている。
その音に母親の心臓の音、母親が話す声、外から伝わるさまざまな音が加わり、胎児の聴く音楽になる。胎児はそれらを聴覚だけではなく身体全体を通して、胎内に響く音楽として聴いていたはずなのだ。
この世に生を受け、成長と共に様々な記憶が蓄積される。胎内で聴いた音楽の記憶は急速に薄れていく。しかし何かのきっかけで呼び覚まされることがある。

聴覚だけではなく、身体の一部を伝わる振動と共に聴こえたピアノの音…。
私にとっては、まさしく胎内の音楽の記憶が、あの瞬間に呼び覚まされたことにほかならない。

呼び覚まされる記憶は、私が音楽を創るうえでの大きな要素のひとつだ。記憶は懐古とは異なる。子供の頃から現在まで、見たもの感じたこと、考えたことなどさまざまな意識と無意識の蓄積が、私にとっての「記憶」。音楽を創る「原石」の一つになっている。

私はその原石から創るべき音楽をイメージし、その音に「想い」を巡らせる。
想いを巡らせることは、自分の心の声に耳を澄ませることでもある。
たとえば父や母の人生に想いを巡らせ、自分の人生を重ね合わせてみる。
子供の頃にはわからなかった、父や母それぞれの喜びや苦悩、時には悲しさまでも少しずつ見えてくる。
同じように、私の想いと重なり合う人たちの記憶に想いを巡らせば、より多くの人たちと共有できる音楽を創る糸口になるはずだ。そう思って、今日も想いを巡らせる。

記憶という原石は、私だけの特権ではない。
誰もが持っている大切なものであり、そこには悲しさや苦悩、怒りなどとともに、生きる喜びや希望へとつながるヒントが隠されているように思う。
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2014年1月4日土曜日

04 <第1章 「記憶」のなかの原石> 不思議な音空間


空海(弘法大師)が開いたことでも有名な、和歌山県の高野山。
真言宗の総本山でもあり、20047月には『紀伊山地の霊場と参詣道』として世界遺産に登録された。
父方の祖父は、その高野山にある「成福院(じょうふくいん)」という寺の住職をしていた。
そんな関係で、小さい頃から春夏そして冬休みのほとんどを高野山で過ごしていた。1年の3分の1を過ごしていたことになり、私にとっては第二の“ふるさと”と言える土地でもある。
山上の小さなこの町には、宿坊(しゅくぼう)という宿泊できる寺院が現在53(それ以外の寺院を含めると113)あり、まさしくお寺の町だ。

小学校に入ると本堂横の小さなスペースを自分の部屋にしてもらい、私は仏像や位牌、遺骨などと隣り合わせの空間に、ひとりで寝起きしていた。自分から望んだこととはいえ、やはり夜は怖かった。
しかし祈りの場所である“本堂”という空間は、子供の私にはとても不思議であり、なぜか気持ちが落ち着く場所でもあった。

朝は必ず勤行の始まりを告げる半鐘の音で目を覚ます。
布団の中でまだまどろんでいると、まず聲明(しょうみょう)を唱える声が流れ始める。聲明は簡単にいえば仏教音楽のひとつで、お経にメロディーが付いたようなものだ。

その響きは、複数の僧侶たちが出す声の音程や動きが微妙にずれることによって生じる独特な荘厳さが特徴でもあり、僧侶の数が増すほどその荘厳さも増していく。
聲明の途中では『妙鉢(みょうはち)』というシンバルのような鳴り物などの音も時折聞こえてくる。そして読経の声や『りん』という小さな鐘の音などが加わり“不思議な音世界”を構成していく。
そんな空間と音世界は、後の私の音楽に大きな影響を与えることになった。
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2008年にリリースした「そらとうみのあいだ」という自身のアルバムに、聲明を使って作曲した”風の庭”という楽曲を収録しているが、抜粋を下記でお聴きいただけるので、もしご興味があればコチラをクリックを(この映像は「そらとうみのあいだ」のリリースに合わせて行った東京芸術劇場中ホールでのコンサートの際に使用したものの一部分)
このアルバムは、レクイエム・プロジェクトとは違うもう一つのライフワーク、広い意味でのアジア(ユーラシア大陸を含む)をテーマにした音楽で構成したアルバムで、全12曲すべて一部分を試聴していただけるので、お聴きいただければ幸いである。
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お寺という環境を生まれながらに持っていた私だが、実は幼稚園はカトリック系だった。
現在は建物も無くなってしまったが、香里団地の中にあった聖母女学院幼稚園に通っていた。その幼稚園では専門家を招いて、希望者にハーモニカと木琴を教える活動などもやっていて、私も習っていた。専門的な英才教育とはほど遠いが、音楽に無縁だった両親が反対しなかったおかげで、音楽が身近な存在となっていった。

カトリックの幼稚園が気に入ったのだろうか、卒園後も数年は日曜学校に通っていた時期がある。日曜学校では、クリスマスになるとキリスト生誕の劇に参加したり、賛美歌も歌った。
その頃の日常は「天にまします我らの父よ…」と祈りを捧げる場所と接点を持ち、学校が休みになると「仏説摩訶般若波羅蜜多心経…」と唱える祈りの空間で生活するというものだった。
無節操なようにも思えるが、私の中では子供の頃から何の違和感もなかった。それは、高野山という場所の特殊性にあるのかもしれない。

高野山の「奥の院」は、弘法大師の御廟がある場所まで、約2キロの参道両脇に無数の墓がある。宗旨宗派を問わないというのが特徴で、戦国大名をはじめ親鸞や法然など、一般の人たちも含め真言宗以外の様々な人のお墓が昔から存在している場所だ。

宗旨宗派を問わず「祈りの場」として存在する高野山。子供心にも、何か大きなものを感じていた。「生命」の不思議さや尊さを遊びの中で教えてくれた里山と同様、高野山という場所を生活環境として持っていたことは、私にとっては大きな意味を持つ。
批判的な見方も当然あると思うが、クリスチャンでもない私が「レクイエム」を作曲した背景には、そんな環境も少なからず影響している。
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2014年1月3日金曜日

03 <第1章 「記憶」のなかの原石> 足踏みオルガン


父も母も音楽とは無縁の人だった。
父は酔っぱらうと演歌や流行歌を口ずさむものの、機嫌が良い時に限るという条件付きだった。母が歌う姿は、あまり記憶に無い。
そんな両親との生活だから、特に日常的に音楽に親しむという環境は無かった。
 
香里団地での生活が始まった数年後には、「白黒テレビ」があった。いわゆる「三種の神器」といわれたものの一つだ。音楽と言えばそのテレビから時々流れてくる流行歌ぐらいだったと思う。

そんな私が音楽教育を受けるきっかけは、実にたわいもないことだった。
幼稚園に通っていたちょうどその頃、ヤマハが電気オルガンを使った「音楽教室」の展開を全国で始めていた。
その教室に通う友達が羨ましく、また何となく好奇心もあった。
子供の頃の私は、あまり自分の欲求を口に出して言うタイプではなかったが、どういうわけか母に「自分も音楽教室に行きたい」と言ったらしい。
あの時そう言い出さなかったら、音楽を始めるきっかけは無かったかもしれない。

子供に音楽を習わせるなんて、まだまだ贅沢な時代。
教育熱心だった母は、おそらく教室に通わせるお金のことで、父と夫婦げんかをして私の希望を叶えてくれたのだと思う。でもさすがに音楽教室で習う電気オルガンは高価で手が出なかったのだろう。
しばらくは家に楽器もなく、紙に印刷された鍵盤を押さえながら、練習の真似事をしていた。紙の鍵盤を押さえても、当然ながら音は出ない。
紙の鍵盤での練習では、メロディーを歌いながら指を動かしていたはずだが、どう考えても無茶だ。あえて良く言えば、イメージトレーニングに近いものだったような気もするのだが…。

近所に住んでいた両親の友人夫婦が見かねたのだろう。奥さんが幼稚園の先生をしていたとかで、ある日どこからか使わなくなった中古の足踏みオルガンを調達してきてくれた。
その日は楽器というものが、我が家に初めてやってきた記念日でもある。

とても嬉しかったのだが、子供にとって足踏みオルガンは扱いにくい。
通常は足もとの二つのペダルを交互に踏んで空気を送り続け、鍵盤を押さえると音が出る仕組みなのだ。構造上、椅子に座らないと両方のペダルは踏めない。ところが椅子に座ると幼稚園児の身長では足が届かない。
結局は立って右足で身体を支え、左足で何度もペダルを踏みながら弾くという、何とも不自然な状態にならざるを得ない。鍵盤の位置は子供にとっては高いところにあるから、オルガンを弾いている姿はずいぶん滑稽だったと思う。

上達すればさらに滑稽さが増すことになる。
大人の右膝が当たる部分に音量をコントロールするレバーがあり、音楽の強弱が付けられるようになっていた.強弱は音楽の表現で大切な要素のひとつだから、上達するにはその操作が必要になる。
鍵盤を弾く両手以外に、両足も大活躍。左足はペダルを踏んで空気を送り、右膝あたりを左右に動かして強弱レバーを操作する。両手は肩の位置に近い場所まで上げないと鍵盤を上手く弾けない。なんともアクロバティックな姿だ。

そんな笑い話のような練習を重ねていたオルガンとの出会い。
可笑しくもあり、有難くもある。
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 次回は 04 <第1章 「記憶」のなかの原石> 不思議な音世界
 前回は 02 <第1章 「記憶」のなかの原石> 里山とロバート・ケネディ

2014年1月2日木曜日

02 <第1章 「記憶」のなかの原石> 里山とロバート・ケネディ


そんな大人の複雑さに翻弄されながらも、私は私で香里団地での生活を満喫していた。
我が家の棟があった一帯は里山に隣接していたので、香里団地の中でもとりわけ自然が豊かだったからだ。

春が近づいてくると草木が芽吹きはじめ、様々な生き物が活動を始める。
それにつられるように、私は昆虫や魚、草花などの本格的な捕獲採集活動に入っていくのだった。
田んぼや畑の横を流れる小川や水路では魚やメダカが泳ぎ、ドジョウも盛んに水面に上ったり泥の中にもぐったりする。田んぼの水たまりや小さな池には、蛙の卵やオタマジャクシ、アメンボやタガメなど水生の生き物、そしてアメリカザリガニなど。
毎日のように多くの生き物を獲っては家に持ち帰り、育てたり観察したり、時には無駄死にさせたりしていた。

もちろん花の開花とともに蝶もたくさん飛び交う。
アゲハチョウやモンシロチョウなどを網で追いかけることはもちろんだが、幼虫を捕まえては、蝶になるまで家でよく育てたものだ。
トンボの数も多く、大型のものから美しい色をした小さなイトトンボまで、多くの種類が生息し、私の好奇心は尽きることがなかった。
ホタル、蝉そして秋の虫たち。数えあげればきりがない。
豊かな自然環境は、里山の恵みそのものだった。

生き物があまりいなくなる冬は、里山が忍者ごっこの格好の舞台になる。
テレビゲームなどに興じる今時の子供たちには、到底想像できないだろう。戦争中の防空壕の跡なども残っていたので、そこは遊び仲間の陣地になった。
ほぼ1年を通して、季節の移ろいとともに私の遊び心を満喫させてくれた里山。
様々な生き物とのふれあいを通して、何よりも「生命」の不思議さや尊さを教えてくれた「教育の場」でもあった。

そんな自然環境とは対照的に、香里団地はやはり先端的な町だった。その中でも特に目新しい施設が大丸ピーコックだ。
香里団地にあった店が第1号店という事を後から知って驚いたが、1階部分が当時の感覚としてはおしゃれなスーパーマーケット、2階部分が食堂になっていた。
その食堂では入り口でトレーを各自受取り、目的の料理を選ぶカウンターまで移動し注文する。料理を受取ったらレジで会計を済ませ、テーブルにトレーを自分で運んで食べるのだ。今ではありふれたシステムだが、昭和30年代としては、画期的な店舗だったことは間違いない。

その大丸ピーコック前の広場は、夏になると盆踊り大会や野外での映画鑑賞会が開かれ、屋台や夜店が軒を連ねる昔ながらの賑やかな場所となった。
モダンな街が一変する、不思議な空間だった。

不思議といえば、必ず思い出すことがある。
ある時、大丸ピーコックから我が家までの帰り道で遭遇した出来事だ。
5歳の時のことだが、母との買い物帰りに突然知らない人に手を引かれ、これまた知らない外国人に抱っこされたのだった。
その様子を何台かのカメラが撮影し、周りが人だかりになっていた。
きっと私は不安げな表情を浮かべていたと思うのだが、母は嬉しそうだったことを覚えている。
突然外国人に抱っこされて写真を撮られた私としては、不思議以外のなにものでもなかった。

その不思議な出来事に登場した外国人は、なんとロバート・ケネディだった。
兄のジョン・F・ケネディ政権で司法長官をしていた時代だと、あとで知った。夫妻で香里団地を視察に来ていたらしい。
その視察を取材していた新聞記者が撮影用に私を抱っこさせたわけだが、はたして記事になったのか、私とロバート・ケネディのツーショットが紙面に掲載されたのかは定かではない。
視察の翌年、ジョン・F・ケネディがダラスで暗殺され、その5年後にはロバート・ケネディも暗殺される。
あの時の写真は、どこにあるのだろうか?残っているなら見てみたい。

豊かな自然と、コンクリートの塊ともいえる人工的な集合住宅群。
外国からも視察に来るような先端的な街づくりと、古くから日本人が慣れ親しんだ生活習慣の共存。
そんな一見矛盾するような要素が渾然一体となった町。
それが私の“ふるさと”であり、感性を育んでくれた場所だ。
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2014年1月1日水曜日

01 <第1章 「記憶」のなかの原石> いか焼きが宙を舞う


私は昭和31年に、大阪・豊中市の曽根という町で生まれた。
家は伊丹飛行場の近く。着陸ルートのほぼ真下にあったため、幼い頃の記憶の中に、頭上を低空で飛ぶプロペラ機の姿がある。護岸されていない小川の土手で遊びながら、のんびりとよく飛行機を見上げていた。現在のような、過密な運航スケジュールではなかったからこその記憶でもある。

父親は当時、中学校の教師をしていた。
その頃の世の中は、神武景気や岩戸景気などと呼ばれる好景気の時代だったようだが、父の仕事はそんな世情とは無縁だった。
どんな家だったのかあまり記憶は無いが、今考えると四畳半一間ほどの小さな借家だったと思う。外壁も板張り。豊かでは無かったけれど、そんな家庭も珍しくない時代だった。

父は人情にも篤かったが、とんでもなく「激しい」気性の人だった。
母も負けてはいなかった。
当然、夫婦げんかが毎晩のように繰り広げられる事になる。
アーケード・ゲームにもなっている「ちゃぶ台返し」の世界は、子供の頃の私にとっては現実そのもの。丸いちゃぶ台が宙を舞う光景は、我が家では日常茶飯事だったのだ。

そんな日常は変わらないまま、私が3歳の時に同じ大阪府内の枚方(ひらかた)という町に引っ越すことになった。
当時としては最先端のニュータウン。大規模に開発された集合住宅群として誕生した「香里団地」が、新しい生活環境となった。香里団地は、その規模の大きさで東洋一を誇っていた時代もあり、全国の先がけでもあった。

いくつかの違った形の棟が建ち並んでいたが、我が家はテラスハウスだった。
小さいながらも庭があり、2階建て。1階部分は6畳ほどのリビング・ダイニング。その奥に小さく細長い台所と風呂場があった。2階へ上がる階段横にトイレがあり、2階は6畳と4畳半の和室だった。
そんな家が6軒連なってひとつの棟になっていた。言ってみれば西洋風の長屋だが、モダンな住居だったと思う。
仲のよいご近所の母親同士が、勝手口を行き来して、米や調味料の貸し借りをよくしていた。今ではめったに見られない光景だろうが、懐かしくもあり、ご近所付き合いの大切なひとコマのような気もする。

父はずいぶん思い切ったことをしたものだと思う。
30歳前半だった父の給料では、かなり厳しい家賃だっただろうに。
みんなが豊かさを求めて、必死で生きていた時代。
我が家も、例外ではない。
生活が大変だったから、父は学校の授業が終わった後、自動車教習所で指導員のアルバイトをしていた。時々、ほろ酔い気分で大阪名物のひとつ「いか焼き」を買って帰ってきた。子供の私には、ひそかな楽しみでもあった。

ところが、そんな日でも些細な事がきっかけで、夫婦げんかが始まるのだった。
父は横浜生まれ。母は博多生まれ。
けんかの時は生まれた土地の言葉が出る。

「なんば、しよっと! あんたと一緒にいたら泥の船に乗ってるのと同じたい」
「このやろう! 調子に乗るんじゃないよ。あんたあんたって言いやがって、俺をなめてんのか、馬鹿野郎」

さすがに、ちゃぶ台は押し入れの中に眠っていたが、その代わりにお土産のはずの「いか焼き」が宙を舞っていた。せっかくの楽しみだったのに、食べられなくなる日もしばしばだった。

子供にとって夫婦げんかは辛い。
「なんであんなに、けんかばっかりしてるんやろ、なんで別れへんのかな?」
私には不思議でたまらなかった。
ただ仲が良い日もあるので、大人の複雑さが理解不能だった。
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次回 02 <第1章 「記憶」のなかの原石> 里山とロバート・ケネディ はコチラ
前回 00 プロローグ はコチラ

00_プロローグ


いつも遠回りしている自分がいる。
そんな自分のこれまでとこれから・・・。切り離すことの出来ない生い立ちのこと。
エッセイ風に書き溜めていたものを公表しながら、ブログという形にしておこうと思い立ち、スタートさせることにした。
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2010年1月17日。
その日は6,434人という尊い命が犠牲となり、負傷者も4万人を越えた阪神・淡路大震災からちょうど15年という節目を迎えた日。
そして私の新作「レクイエム~あの日を、あなたを忘れない~」の完成初演となった日でもある。
この日のために、私は準備段階からほぼ2年という時間をかけ、何人もの人たちの力を借りながら「レクイエム・プロジェクト」を推し進めてきた。

準備は、被災者の人たちを中心とする市民合唱団を、新たに組織することから始まった。
公募により集まったのは、震災を知らない中学1年生から80歳の方まで。
親子、夫婦、姉妹、なかには親子孫三代という参加者もいた。
すべての世代がそろっていた。その人数は最終的に100人を超えた。当然ながら、合唱経験の無い人たちもたくさんいる。
まさに手作りの合唱団だ。これだけ幅広い世代で構成された大がかりな合唱団は、世界でも珍しいと今でも思っている。

2008年7月から始まった合唱団の練習は月2回。
練習のたびにメンバー数人ずつ自己紹介をしてもらった。10年以上、心の中に閉じこめてきた思いや、これまであまり口に出さなかった震災時の体験を語り始める。
次第にみんなが心を寄せ合い、思いを重ね、追悼と希望のハーモニーは形を整えていく。並行するように、ひとりひとりの心の闇に光が灯り始めた。

「いのち」をきちんと見つめることで、みんなの心が少しずつ元気になっていく。そのプロセスはまさに「レクイエム・プロジェクト」という名前にふさわしいものだったと思う。

1年半に及ぶ合唱の練習、そして途中2009年1月17日の一部分初演を経て、いよいよ完成初演を迎えた2010年1月17日。
 プロのオーケストラと声楽家、合唱団そしてスタッフ総勢158名。そして客席にはほぼ満席の2千人近い来場者。通常のクラシック・コンサートとは違う。みんなが共通の思いを抱いて、その場所にいる。

そんな中、レクイエムの演奏は始まった。
やり場の無い怒りと悲しみ。
15年というある意味長い時間でも解決できなかった心の闇。
亡くなった人たちへの追悼と同時に、生かされたことへの思い。
未来に託したい願い。


みんなありったけの思いを込めて歌った。
とめどなく涙が溢れ、頬を伝った。

そして希望に向かう終曲が終わった後、万雷の拍手の中、
明るく生き生きとした笑顔がそこにはあった。
輝いていた。

このプロジェクトに関わった時間の中で、ひとりひとりが心の重荷をひとつまたひとつ降ろしながら辿ったプロセスの結果だったように思う。

プロジェクトを始めて5年半。
あの時は、想像もしなかった東北の地でのレクイエム・プロジェクトが始まっている。

次回 01 <第1章 「記憶」のなかの原石> いか焼きが宙を舞う はコチラ